吉良の屋敷替えと江戸会議
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/12 02:32 UTC 版)
「赤穂事件」の記事における「吉良の屋敷替えと江戸会議」の解説
吉良上野介は、刃傷事件で負傷した時点ではおとがめなしであったが、一部では浅野内匠頭に対する裁定の厳しさに対する同情論から、上野介に対して厳しい見方も存在した。例えば『易水連袂録』にはもし内匠頭が上野介に対して「意趣」があり、それが「堪忍しがたきもの」なら内匠頭の行動は「乱気」でも「不行跡」でもないはずだと、内匠頭の行動に理解を示している。また武士道の観点からいえば、売られた喧嘩を買わずに逃げるのは、武士にあるまじき不名誉な行為のはずである。 上野介はこうした世評を意識して、高家肝煎の辞職願を出さねばならなかったし、傷は14、5日で治ったのにわざと重く見せかけねばならなかったという(『栗崎道有記録』)。上野介は3月23日付でお役御免となった。 その後、8月19日に吉良家は呉服橋の屋敷を召し上げられて、江戸郊外の本所松坂町に移り住む事になった。大名屋敷の多い呉服橋と比べ、本所は人気のない構外であったことから、討ち入りをしやすくするために上野介を郊外に幕府が移したのではないか、とのうわさが江戸に流れた。幕府がなぜこの時期に屋敷替えを命じたかは不明だが、『江赤見聞記』巻四によれば、吉良邸の隣の蜂須賀飛騨守は、旧赤穂藩士の討ち入りを警戒していて出費がかさむという理由で老中に屋敷替えを願い出ていたというので、こうした事情が影響した可能性はある。 堀部安兵衛ら急進派はこの屋敷換えを討ち入りの好条件ととらえ、大石内蔵助に討ち入りを迫った。そこで大石は急進派を説得する為、9月はじめ頃に原惣右衛門、潮田又之丞、中村勘助の3人を派遣し、さらに10月に進藤源四郎と大高源五を派遣したが、どちらも逆に説き伏せられて急進派に同調してしまった。そこで大石は自ら急進派を説得すべく、10月23日、奥野将監、河村伝兵衛、岡本次郎左衛門、中村清右衛門を伴って隠棲先の山科を出発した。 一方堀部、奥田孫太夫、高田郡兵衛は、大石合流前の10月29日、討ち入りを決意するための神文を作成する。ここでは、従来の堀部の主張通り、内匠頭の意志を継いで吉良邸討ち入りを果たすことを誓い、末尾の罰文には、通常は神仏の罰とするところを「御亡君の御罰遁るべからざる者也」とした。また、討ち入りを決行する時期として、翌年3月の一周忌まで、と具体的に期限を定めた。 11月10日、芝で旧藩士の会合が開かれた(江戸会議)。参加者は、大石、堀部、原、進藤、奥野、河村、岡本、奥田、高田である。堀部は、浅野大学が閉門中に討ち入りをすれば、大学の赦免後にも「人前」が立つし、君臣の礼儀にもかなう、と述べた。一方大石は、大学の安否を見届けることを主張した。結局、先乗りしていた上方の同志をすでに説得していた急進派が優勢のまま会議は進んだ。期限を区切らないと皆の士気が下がる、という堀部の主張を大石も受け入れ、翌年3月に結論を出すことを約束した。
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