吉良のいじめ
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史実に俗説を取り交えて書かれた『赤穂鍾秀記』(元禄16年元加賀藩士の杉本義鄰著)の憶測によれば、吉良は元来奢侈で利欲深く、いつも過言し「付届け」の少ない者には指図を疎かにしたり陰口をたたいたりする人物であったという。同書によれば、浅野が吉良に付届けをしなかったので吉良は不快に思い、浅野が勅使をどこで迎えるべきかと吉良に問うたところ、「そんな事は前もって知っておくべきだ」と嘲笑し、「あのような途方もないことをいう人間にごちそう人が勤まるか」と少し声高に雑言したという。同書はさらに、勅使が休憩する増上寺宿坊の畳替えを吉良が指示せず浅野内匠頭が危うく失態を招きそうになったという話や、「吉良から無礼な事をされても堪忍すべきだ」と親友の加藤遠江守から浅野が忠告されたという話が載っている。 また後の「赤穂義士」観に決定的な影響を与えた室鳩巣の『赤穂義人録』(元禄16年10月著、宝永6年改訂)では、さらにはっきりと吉良が儀式作法を伝授する際「賄賂」を受け取っていたと書かれている。同書によれば、浅野は公私をわきまえず贈り物をする気は全くなかった事が吉良との不和の根本原因となったという。そして「大広間の廊下」で浅野は勅使の迎え方で吉良から侮辱される。梶川が「勅答の礼が終わったら連絡してほしい」と浅野に伝えると、吉良は横から口を挟み、「相談は私にすべきだ。そうでないと不都合が生じるでしょう」と浅野を侮辱し、さらに吉良が「田舎者は礼を知らない。またお役目を辱めるだろう」と追い打ちをかけた為、浅野は刃傷に及んだという。こうした記述に対し、刃傷の場に居合わせた梶川与惣兵衛の書いた『梶川与惣兵衛筆記』の記述と矛盾があることが指摘されているが、刃傷沙汰当日の記述に相違がある事だけから「吉良のいじめ」自体が無かったとするのには無理がある。 他にも江戸幕府の公式史書である『徳川実紀』の元禄十四年(1701年)三月十四日条には、 世に伝ふる所は、吉良上野介義央歴朝当職にありて、積年朝儀にあづかるにより、公武の礼節典故を熟知精練すること、当時その右に出るものなし。よって名門大家の族もみな曲折してかれに阿順し、毎事その教を受たり。されば賄賂をむさぼり、其家巨万をかさねしとぞ。長矩は阿諛せす、こたび館伴奉りても、義央に財貨をあたへざりしかば、義央ひそかにこれをにくみて、何事も長矩にはつげしらせざりしほどに、長矩時刻を過ち礼節を失ふ事多かりしほどに、これをうらみ、かゝることに及びしとぞ とあり、吉良が行っていたいじめに関して、当時から公然と認知されていた事が窺える。 一方で吉良上野介によるこうした侮辱的ないじめ行為があり、耐えに耐えかねて刃傷に及んだというのであれば、何故浅野がそれらを幕府に訴えなかったのかという疑問や、そうしたいじめを公然と認知していたというのであれば、何故幕府が吉良に対して注意をしたり、責任を問いただしたりしなかったのかという疑問が残されたままである。
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