合併路線の推進
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1924年(大正13年)上期における射水郡七美村への新規供給を最後に、開業以来の供給区域拡大が終了した。従って高岡電灯では区域内に残る未配電地域への給電や全体的な電灯利用普及を図る方針へと転換し、特に1923年(大正12年)下期には20周年記念と銘打って増灯・増燭勧誘を全職員を挙げて実施、1か月の期間中に7千灯の増灯と10万燭の増燭を達成した。その後も電灯・電力や農事電化、家庭電化の分野で勧誘に努めた。電化は地場産業である銅器や漆器の工場にも浸透し、呉西平野の水田地帯では電動揚水機・排水機が普及していった。 この1920年代には、高岡電灯は積極的な合併路線を採り、1924年から1929年(昭和4年)にかけて4社の電力会社を合併した。最初の合併は1924年5月の神通川電気(下記で詳述)である。同社は1919年12月に設立。1922年(大正11年)1月に開業し、五平定発電所をはじめ水力発電所3か所(総出力3,300キロワット)を運転していた。この神通川電気の合併により高岡電灯は受電依存からの脱却を果たす。 2番目の合併は1928年(昭和3年)5月31日のことで、石川県能登地方の能州電気を合併し、鹿島郡端村大字和倉(現・七尾市)に「能州支社」を設置して石川県へと進出した。この能州電気は1921年7月に鹿島郡中島村(現・七尾市)にて設立され、翌年にかけて能登半島北部に散在した4つの電力会社を統合していた。自社発電所は持たず、金沢から穴水まで送電線を持っていた金沢市営電気から受電した。また同時期、富山電気も七尾の能登電気を合併するなど能登半島への進出を図っていたことから、能登半島の電気事業は高岡電灯と富山電気という富山県の事業者によって分割されることとなった。 1929年の合併は、10月1日の北陸共同電気の合併と、10月31日の石動電気合併の2件であった。うち北陸共同電気は石川県下の有力事業者が富山方面から受電するために1924年5月に設立したもので、石動開閉所にて日本電力より受電し、県境を越えて津幡で小松電気、金沢で市営電気、小松で小松電気・大聖寺川水電・小松製作所へとそれぞれ電力を供給していた。一方石動電気は高岡の西方、富山県西礪波郡石動町(現・小矢部市)の電力会社で、1911年9月に開業、一部石川県にも供給区域を広げていた。この2社の合併で高岡電灯は支社を石動町と金沢市にも構えた。また石動電気が株式を持っていた石川県の金沢電気軌道が新たに関係会社となっている。 高岡電灯の資本金は神通川電気合併により100万円から180万円へ、1926年(大正15年)12月の増資で540万円へ(公募はせず既存株主に対し持株1株につき2株の割合で割り当て)、能州電気の合併で640万円へ、北陸共同電気・石動電気の合併で983万円へと順次増加した。供給成績も急速に伸長し、電灯数は1923年に6万灯を数え、1928年には倍増の12万灯、1929年には一挙に20万灯を超える規模となったほか、電力供給についても1920年代後半には8,000キロワットを超えている。一連の合併によって高岡電灯は北陸地方における中核電力会社の一つとなった。 なお石動電気と北陸共同電気の合併に伴い、両社共通の大株主であった業界大手の日本電力(厳密には同社傘下の投資会社「日電証券」)が高岡電灯の筆頭株主となった。持株比率は5パーセント程度。傘下となったことで日本電力から役員が派遣されたが、引き続き社長は創業者の菅野伝右衛門のままで、その周囲の経営陣も地元有力者であったことから、日本電力が経営面で与えた影響は限定的である。
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