叔父アントニヌスの即位
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「マルクス・アウレリウス・アントニヌス」の記事における「叔父アントニヌスの即位」の解説
ハドリアヌスの死後、直ぐにアントニヌスは妻の甥(アウレリウス)を政敵の息子(ウェルス)より重用する姿勢を見せ、アウレリウスからすれば従姉妹である小ファウスティナとの結婚を要請した。アウレリウスと小ファウスティナはそれぞれの元の婚約を破棄すると、親族同士(いとこ婚)による結婚に同意した。 叔父の皇帝即位と、その子女である従姉妹との結婚は、アウレリウスの宮殿における地位を大幅に引き上げた。140年にアウレリウスはアントニヌスの同僚執政官に叙任され、続いて全エクイテスを指揮する騎士総長(iuventutis)に任命された。皇帝の後継者としての証である副帝の称号も受け、全名をマルクス・アエリウス・アウレリウス・ウェルス・カエサル(Marcus Aelius Aurelius Verus Caesar)に改名した。アウレリウスは自身の名声に溺れず、清廉な生き方を貫く様に意識したと語っている。神学に関する専門知識も健在であり、元老院の命によって幾つかの神学者の組織(pontifices、augures、quindecimviri sacris faciundis、septemviri epulonum、Arval Brethren)に加わっているが、歴史的資料で証明できるものは「Arval Brethren」への参加のみである。 アントニヌスは質素な生活を好んだ甥に宮殿で生活するように命じ、また皇帝の親族に相応しい華やかな生活を行うべきだと促した。叔父の命に従って宮殿に移り住んだアウレリウスは、退廃した貴族文化と自身の生き方との食い違いに悩んだ。アウレリウスの望みはストア派哲学に基づいた禁欲と自省であり、人間の持つ理性がそれを可能にすると信じていた。最終的にアウレリウスは「生命がある限り、人間は理性で己を律する可能性を持つ。そして宮殿は退廃した場所だが、生きる上での不都合まではない。従って周囲が退廃に満ちている宮殿においても、己を律することは可能である」と結論している。しかしこうした結論にも関わらず、アウレリウスは宮殿の退廃にしばしば飲み込まれてしまい、「自省録」では自らその罪を書き連ねて懺悔している。 財務官としてのアウレリウスの仕事や権限は無いに等しく、皇帝不在の時に手紙を代読するといった秘書的な役割が精々だった。執政官としては二つの元老院議長の一人として議会を統制する立場であった。代読作業についてアウレリウスは自身の秘書官に「毎日30通の手紙を口述しているおかげで息が切れそうだ」と皮肉を口にしている 歴史家たちは「アウレリウスは政務に才覚があった」と述べている。毎日元老院で演説と議論の統制を行っていたアウレリウスは、必然的に弁論術を学ばなければならなくなった。 145年、アウレリウスは二度目の執政官叙任を受けた。この時にアウレリウスは体調を崩していた可能性があり、秘書官は「貴方が良い顔色で元老院に入って力強く演説できるように、十分な睡眠を取るべきです」とする手紙を送っている。アウレリウス自身の手紙では「私の体調は快方に向かっている。かつてのように胸に痛みを感じる事はなくなった。しかし私は自分の潰瘍(中略)…について常に意識した治療を行っている。アウレリウスは余り体が丈夫な方ではなく、カッシウス・ディオはそうした部分を感じさせずに振舞う様を賞賛している。 145年、アウレリウスは7年前に結んだ婚約に従って従姉妹の小ファウスティナと結婚した。血統上でも既に近い親族関係にあった両者であるが、法律的には義理の兄妹ですらあったので、どちらかに対して家父長権を放棄せねばならなかった。二人の式典についての記録は散逸しているが、当時の注目を集めた出来事であった事は分かっている。二人の結婚を記念する通貨が出され、また最高神祇官でもあったアントニヌスが式典を監督したと見られる。
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