藤村操
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藤村 操(ふじむら みさお、1886年(明治19年)7月20日[1] - 1903年(明治36年)5月22日)は、北海道出身の旧制一高の学生。華厳滝で投身自殺した。自殺現場に残した遺書「
注釈
- ^ 胖の死は病死といわれる。伊藤整『日本文壇史』7巻に自殺説が書かれているが、根拠は不明とのこと[4]。
- ^ 徳冨蘆花『思出の記』(民友社、1901年、p254。)に「ホラシオ、天地のことは卿が理学に説き尽されぬ事もあるものぞ」(卿には「おんみ」とルビがあり、あなたの意味)[1]。土方、p.164。
- ^ 黒岩涙香『天人論』(朝報社、1903年、p.28)に名言の引用で「ホレーショよ、天地には汝が哲学にて夢想し得ざる所の者あり 砂翁のハムレツト」[2]。奥付は1903年5月14日付で、藤村が投身する直前の刊行。
- ^ 谷沢の所蔵書は2007年6月に関西大学図書館に寄贈され、同図書館の「谷澤永一コレクション」に保存されている[34]。
出典
- ^ 平岩 2003, p. 224.
- ^ 荻野富士夫「藤村操」『国史大辞典』、吉川弘文館
- ^ 朝倉 2005, p. 32.
- ^ 平岩 2003.
- ^ 東京府小石川区新諏訪町五番地。
- ^ 『人事興信録』(第5版)、さ91頁頁。NDLJP:1704046/1156。
- ^ 『人事興信録』 下(第14版)、フ79頁頁。NDLJP:1704455/540。
- ^ 中嶋繁雄『明治の事件史―日本人の本当の姿が見えてくる!』青春出版社〈青春文庫〉、2004年3月20日、220頁。
- ^ 読売1903.5.27「華厳瀑の悲劇」、朝日1903.5.27。
- ^ 読売1903.7.5、朝日1903.7.5。
- ^ 日光観光協会編 編「華厳ノ滝」『日光パーフェクトガイド』(初版)下野新聞社、1998年3月30日、123頁。ISBN 4-88286-085-6 。2010年6月16日閲覧。
- ^ 和崎光太郎「近代日本における「煩悶青年」の再検討 : 1900年代における<青年>の変容過程」『日本の教育史学』第55巻、教育史学会、2012年、22-23頁、doi:10.15062/kyouikushigaku.55.0_19、ISSN 03868982、CRID 1390001205765916288。
- ^ 宮武外骨『滑稽新聞』1903年7月20日:平岩 (2003, pp. 69–70)に引用がある。
- ^ 土門 2002, pp. 186–188.
- ^ 『週刊朝日』1986年7月11日号、安野光雅『わが友の旅立ちの日に』(山川出版社、2012年)pp.116-122も参照。
- ^ 藤村の書き込みについては『別冊太陽 日本人の辞世・遺書』(平凡社、1987年)に記述がある。
- ^ 土門 2002, p. 186.
- ^ このハムレットのセリフはバイロンの『マンフレッド』の冒頭にも引用されている。
- ^ 坪内逍遙: “ハムレット 坪内逍遙譯”. 早稲田大学出版部 (1909年). 2017年8月5日閲覧。
- ^ 柴田耕太郎『英文翻訳テクニック』ちくま新書、1997年、p53-54。
- ^ 小田島雄志 『シェイクスピア名言集』 岩波書店〈岩波ジュニア新書〉、1985年、p208。
- ^ 土門 2002, pp. 159–160.
- ^ 逸身喜一郎『ラテン語のはなし』大修館書店、2000年、p.136。同「ホレーショの哲学」『文学』1992年冬号。
- ^ 井上 2007, pp. 65–66.
- ^ 朝倉 2005, p. 39.
- ^ 朝日新聞出版刊 新マンガ日本史43号「夏目漱石」。
- ^ 朝倉 2005, p. 14.
- ^ 和崎光太郎「近代日本における『煩悶青年』の再検討 1900年代における<青年>の変容過程」教育史学会編『日本の教育史学』(第55集、2012年10月)pp.22-24。
- ^ 朝倉 2005, p. 44.
- ^ 朝倉 2005, p. 45.
- ^ 藤村 1907.
- ^ 谷沢永一『遊星群 時代を語る好書録 明治篇』和泉書院、2005年12月 ISBN 978-4-7576-0287-8
- ^ “藤村操をかたり著述? 「煩悶記」に147万円の売値”. 朝日新聞. (2005年10月15日). オリジナルの2009年5月28日時点におけるアーカイブ。
- ^ 関西大学図書館「谷澤永一コレクションリスト」、関西大学図書館、2009年7月。
- ^ “明治大学プレスリリース”. 明治大学. 2020年11月19日閲覧。
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