華厳滝の自殺
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/07/23 10:11 UTC 版)
1903年(明治36年)5月21日、制服制帽のまま失踪。この日は栃木県上都賀郡日光町(現・日光市)の旅館に宿泊。翌22日、華厳滝において、傍らの木に「巌頭之感」(がんとうのかん)を書き残して投身自殺した。同日、旅館で書いた手紙が東京の藤村家に届き、翌日の始発電車で叔父の那珂通世らが日光に向かい、捜索したところ遺書(巌頭之感)や遺品を見つけた。一高生の自殺は遺書の内容とともに5月27日付の各紙で報道され、大きな反響を呼んだ。遺体は約40日後の7月3日に発見された。 厭世観によるエリート学生の死は「立身出世」を美徳としてきた当時の社会に大きな影響を与え、後を追う者が続出した。警戒中の警察官に保護され未遂に終わった者が多かったものの、藤村の死後4年間で同所で自殺を図った者は185名に上った(内既遂が40名)。操の死によって華厳滝は自殺の名所として知られるようになった。 墓所は東京都港区の青山霊園。 藤村がミズナラの木に記した遺書は、まもなく警察により削り取られたという(後に木も伐採)が、それを撮影した写真がある。
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