原水協事件
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「原水爆禁止日本協議会」の記事における「原水協事件」の解説
1977年から1984年の間、原水禁世界大会は原水禁と共同で開催されたが、「核凍結」(当時の用法としては、既存の核兵器を存続させることだった)政策への支持を要求する原水禁との間で対立が起きた。 総評と、反主流派の「統一労働組合懇談会」(全国労働組合総連合の前身)の対立が、再分裂の引き金になった。1983年、平和行進で共産党系団体が、統一労組懇旗を掲げたことに総評側が反発。旗は自由とする共産党・原水協・平和委員会・統一労組懇側と、準備委員会に直接参加した団体の旗に限るとする総評・原水禁側の対立に発展した。1984年の平和行進では、市民団体の仲裁で、吉田嘉清原水協代表理事、森賢一平和委員会事務局長(両名とも共産党員)は統一労組懇旗の自粛を受け入れた。しかし、共産党側はこれを「日和見主義」と批判した。6月1日、森に迫って事務局長職の辞意表明をさせ、6月9日、森の辞任に反対した小笠原英三郎会長、長谷川正安理事長ともども解任した。さらに、森が「森一人だけに通告した党中央秘密指令」を長谷川や吉田に漏らしたのは「党内問題を党外にもちだした」として、査問に掛けた末除籍した。 さらに、共産党は吉田にも辞任を迫り、拒否されると辞任に反対する原水協の代表委員6人を解任、さらに代表委員制自体を廃止し、6月29日理事会開催を強行。吉田を解任し、金子毅を後任に据えた。この年の原水爆禁止世界大会は8月1日から開催されたが、それに先立つ各組織合同の運営委員会では、解任された吉田、草野信男の出席を認めるかどうかで紛糾した。8月9日、共産党系の日中出版が、吉田に内幕を取材した『原水協で何がおこったか、吉田嘉清が語る』(ISBN 978-4817511249)を上梓すると、柳瀬宣久社長と社員3名、そして吉田を反党行為を理由に除名した。また、吉田を擁護した古在由重も除籍となった。こうして、日本共産党の意に反する原水協幹部は、ことごとく追放された。 並行して、共産党は『赤旗』1984年4月4日号・4月5日号「統一の路線と分裂の路線――原水爆禁止運動三〇年の経験と教訓」で総評・原水禁の反共・右傾化を批判し、共闘への批判を強めた。その上で分裂の責任は原水禁にあると改めて批判したことから、原水禁・総評側の反発を受けた。 1985年の統一大会に向けた話し合いでは、実行委員会の委員選出を「十一団体で一致できる団体、個人」を主張する原水協・平和委員会側と、「十一団体が推薦する団体、個人」を主張する原水禁・総評側で平行線をたどった。この年の統一大会は開催されたが、1986年にはついに話し合いはまとまらず、再び原水禁世界大会は分裂した。
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