原因・背景
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/10 01:41 UTC 版)
1871年(明治4年)10月、宮古島から首里へ年貢を輸送し、帰途についた琉球御用船が台風による暴風で遭難した。乗員は漂流し、台湾南部に漂着した。船には役人と船頭・乗員合計69名が乗っていた。漂着した乗員66名(3名は溺死)は先住民(現在の台湾先住民パイワン族)に救助を求めたが、逆に集落へ拉致された。 先住民とは意思疎通ができず、12月17日に遭難者たちは集落から逃走。先住民は逃げた者を敵とみなし、次々と殺害し54名を斬首した(宮古島島民遭難事件)。12名の生存者は、漢人移民により救助され台湾府の保護により、福建省の福州経由で、宮古島へ送り返された。明治政府は清国に対して事件の賠償などを求めるが、清国政府は管轄外として拒否した。翌1872年(明治5年)琉球を管轄していた鹿児島県参事大山綱良は日本政府に対し責任追及の出兵を建議した。1873年(明治6年)には備中国浅口郡柏島村(現在の岡山県倉敷市)の船が台湾に漂着し、乗組員4名が略奪を受ける事件が起こった。これにより、政府内外で台湾征討の声が高まっていた。
※この「原因・背景」の解説は、「台湾出兵」の解説の一部です。
「原因・背景」を含む「台湾出兵」の記事については、「台湾出兵」の概要を参照ください。
原因・背景
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/11/17 04:52 UTC 版)
「天竜川川下り船転覆死亡事故」の記事における「原因・背景」の解説
現場は流れの激しい場所であったこと、救命胴衣を着用させていなかったことが指摘されている。現場は川幅約55メートルの急流で、下流に向かって右にカーブし、左岸が岩場、右岸が河原になる場所であった。このため、いったん底に沈んだ水が上昇して渦を巻く噴流がみられ、左岸では岩場に向かう強い流れが、右岸では上流にさかのぼる反流が生じていた。第十一天竜丸は渦の中心のやや右側を通過しようとしたが、噴流などの影響で船首が右岸側に振られて180度旋回。上流に戻ってやり直すために、船首側船頭だった67歳の船頭が声をかけ、船尾の事故で死亡した船頭が船外機のエンジンをかけたものの、すでに制御できない状態となっており、船首を上流に向けたまま岩場に衝突し転覆した 乗客が川に落ちた場合の対応や溺れている人を助ける内容の安全訓練は、6月から7月頃に年1回実施されていた。一方で船の転覆を想定した訓練は実施されておらず、また転覆した際の救助手順などを定めたマニュアルもなかった。 天竜川での川下り船は、この事故を起こした「遠州天竜舟下り」のほか、長野県飯田市松尾の「天竜舟下り」と飯田市竜江の天竜峡から長野県泰阜村唐笠までを運航する「天竜ライン下り」があり、この「遠州天竜舟下り」は、最も下流側であり、船明ダム下の平野部を通り、3つの中では最も流れが穏やかであるといわれる。
※この「原因・背景」の解説は、「天竜川川下り船転覆死亡事故」の解説の一部です。
「原因・背景」を含む「天竜川川下り船転覆死亡事故」の記事については、「天竜川川下り船転覆死亡事故」の概要を参照ください。
- 原因・背景のページへのリンク