即墨の戦い
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/18 02:21 UTC 版)
即墨では、楽毅の返り討ちに遭い大夫が戦闘で死亡した。即墨の軍隊と民間人は、田単に抵抗するように導かれ、双方は数年間戦った。楽毅は攻撃せずに、即墨を包囲戦に持ち込んだ。即墨の兵士と民間人は、大夫の死後、斉の公族でもある田単を将軍に推薦し、燕軍に抵抗した。この即墨の攻防戦は、「即墨の戦い」と呼ばれた。 1年間、燕軍は莒と即墨を包囲したが、落ちなかったために楽毅は攻城戦に切り替えた。燕軍を城から撤退させ九里離れたところに砦を築くようにするよう命じた。3年後も、2城は占領されなかった。
※この「即墨の戦い」の解説は、「戦国時代 (中国)」の解説の一部です。
「即墨の戦い」を含む「戦国時代 (中国)」の記事については、「戦国時代 (中国)」の概要を参照ください。
即墨の戦い
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/03/19 16:51 UTC 版)
詳細は「即墨の戦い」を参照 即墨では、楽毅の返り討ちに遭い大夫が戦闘で死亡した。即墨の軍隊と民間人は、田単に抵抗するように導かれ、双方は数年間戦った。楽毅は攻撃せずに、即墨を包囲戦に持ち込んだ。即墨の兵士と民間人は、大夫の死後、斉の公族でもある田単を将軍に推薦し、燕軍に抵抗した。この即墨の攻防戦は、「即墨の戦い」と呼ばれた。 1年間、燕軍は莒と即墨を包囲したが、落ちなかったために楽毅は攻城戦に切り替えた。燕軍を城から撤退させ九里離れたところに砦を築くようにするよう命じた。3年後も、2城は占領されなかった。 紀元前279年、燕の昭王が死に、子の恵王が王位を継いだ。恵王は楽毅の事を太子時代から良く思っておらず、ここに付け込む隙があると見た田単は反間の計を用いた。燕に密偵を潜り込ませ、「即墨と莒は今すぐにでも落とすことが出来る。楽毅がそれをしないのは、斉の人民を手なずけて自ら斉王になる望みがあるからだ」と流言を流し、恵王の耳に入るようにした。恵王はこれを信じ、楽毅を解任し、代わりに騎劫を将軍として送った。このまま燕へ帰れば誅殺されると思った楽毅は、趙へ亡命した。騎劫は楽毅の戦略とは反対に、即墨への強制攻撃を命じた。しかし、斉の軍隊と民間人の抵抗が起きて、騎劫の攻撃は実を結ばなかった。 次に田単は城内の結束を促すよう考え、城内の者に食事のたびに家の庭で祖先を祭らせた。するとその供物を目当てに無数の鳥が集り、誰しも不気味な様子を怪しんだ。これを田単は「神の教えによるもの」と言い、「いずれ神の化身が現れて私の師となるであろう」と布告した。これを聞いたある兵士が「私が師になりましょうか」と冗談を言うと、田単は嘘と承知した上でその者を「神師」として強引に祭り上げ、自分はその指示に従うという姿勢を見せた。そして軍令の度にこの神の名を用いて人々を従わせた。 続いて「捕虜になると鼻そぎの刑に処されると恐れている」「城の中では城の外にある祖先の墓を荒らされないか恐れている」という偽情報を燕軍に流した。敵将・騎劫がその通りにして見せつけると、即墨の人々は燕軍への降伏を恐れ、祖先を辱められたことへの恨みから団結し、士気は大いに上がった。 城内の人々の状況から、いよいよ出撃の時期が訪れたと判断した田単は、まず城兵を慰撫した。 次に兵を隠して城壁を女子供や老人に守らせ、あたかも城内が困窮しているように装い、燕軍へ降伏の使者を派遣。更に即墨の富豪を介して燕の将軍に対し「降伏しても妻や財産などに手を出さないほしい」との安堵の約束と金を渡した。これらのことにより燕軍は勝利を喜び、油断を深めていった。 そこで田単は千頭の牛を用意し、鮮やかな装飾を施した布を被せ、角には刀剣、尻尾には松明をそれぞれ括り付け、夜中に城壁に開けておいた穴からこれを引き連れた。そして、たいまつに火をつけ尻を焼かれ怒り狂う牛を敵陣に放った。燕軍はその奇怪な姿の牛の突進に驚き、角の剣でことごとく刺し殺された。また、5千の兵もこれに続いて無言のまま猛攻をかけ、更に民衆も銅鑼や鐘などで天地を鳴動させるかのように打ち鳴らし、混乱を煽った。そのため、燕軍は大混乱に陥り、騎劫も討ち取られた。 田単はこの勢いに乗じ、占領されていた70余城全てを奪回した。 田単は首都の臨淄に戻ることができた斉の襄王に、功績を認められて、相国に任じられ夜邑に1万戸の加封を受け安平君に封じられた。
※この「即墨の戦い」の解説は、「合従攻斉の戦い」の解説の一部です。
「即墨の戦い」を含む「合従攻斉の戦い」の記事については、「合従攻斉の戦い」の概要を参照ください。
Weblioに収録されているすべての辞書から即墨の戦いを検索する場合は、下記のリンクをクリックしてください。

- 即墨の戦いのページへのリンク