単一巨砲への転換
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/04/28 02:05 UTC 版)
副砲である6インチ (152 mm) または8インチ (203 mm) の砲を9.2インチ (234 mm) または10インチ (254 mm) の砲に置き換えることで戦艦の打撃力は増大し、特に遠距離の場合に著しかった。しかし、単一口径巨砲の利点は他にも多々あった。ひとつは補給の簡素化である。例えばアメリカがサウスカロライナ級戦艦の多口径砲混載を研究していたとき、ウィリアム・シムズとホーマー・パウンドストーンは、弾薬の供給と、負傷した砲手を非戦闘側の砲手に交替させる場合の砲の統一の利点を強調した。 砲の口径の統一は射撃管制の合理化をもたらした。ドレッドノートの設計者が単一巨砲の設計を選んだのは、射距離を修正するための計算が1回だけですむからだった。 今日の研究者の中には、12インチ (305 mm) 砲の着弾による水柱と、より口径が小さい砲の水柱とを混同する可能性が正確な射距離測定を困難にしており、そのことが口径の統一にあたって特に重視されたという意見がある。しかし、この点については異論もある。1905年時点の射撃管制は、斉射(一斉打ち方)のテクニックを用いるほど(つまり水柱の混同が重大問題になるほど)にはまだ進歩していなかったし、単一巨砲設計に取り組んだ人たちが水柱の混同を心配していたようにも見えない。 それでもなお、交戦の遠距離化が見込まれたことは、標準とすべき最大の砲の口径が10インチ (254 mm) でなく12インチ (305 mm) でなければならないと決めるにあたって重要な要素となった。 さらにまた、新設計による12インチ砲搭は発射速度のかなりの向上をもたらし、以前の小口径砲が持っていた利点を凌駕した。12インチ砲は1895年には4分毎の発射がやっとだったが、1902年には毎分2発の発射が当たり前になっていた。1903年10月に、イタリアの海軍造船官ヴィットリオ・クニベルティはジェーン海軍年鑑に「イギリス海軍にとっての理想的戦艦」という文章を書き、その中で、それは主砲として12インチ砲12門を持ち、12インチ厚の装甲によって防御され、24ノットの速力を持つ、としていた。クニベルティの発案(彼はそれをすでに自分自身の所属するイタリア王国海軍にも提案していたのだが)は、小口径砲からの「雨霰」のような砲弾の代わりに、新型の12インチ砲からの矢継ぎ早の発砲によって、重砲による破壊的な「速射」を実現するというものだった。日本海軍の大口径砲志向への背景にもある種の類似したものがあった。日本海海戦において日本の砲弾は通常の炸薬より高感度の下瀬火薬を使用しており、それは目標に接触するとすぐに爆発し、装甲を突き破るのではなく火災を引き起こした。発射率の増大は、将来の射撃管制の進歩の基礎をなすものだった。
※この「単一巨砲への転換」の解説は、「弩級戦艦」の解説の一部です。
「単一巨砲への転換」を含む「弩級戦艦」の記事については、「弩級戦艦」の概要を参照ください。
- 単一巨砲への転換のページへのリンク