南紀直通列車
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/13 22:52 UTC 版)
「黒潮号」も参照 大正末から昭和初期、和歌山県内では紀勢西線の建設が南進する過程で、和歌山県南部の南紀地域が新たな観光地として開拓され始め、南紀の景勝地である白浜温泉が注目されることになった。そこで当時の鉄道省大阪鉄道局は阪和間を走る南海と阪和の両社に、鉄道省の客車を使用して大阪から紀勢西線へ直通する南紀観光列車の運行を打診した。阪和はこれを受諾したが、南海は自社からのみの直通を希望し、難色を示した。このため直通運転は早期実施を求める世論もあって、当初は阪和単独で行われることになった。 直通運転は1933年11月4日より開始され、公募によって「黒潮号」と命名された。当初は紀勢西線が紀伊田辺止まりのため、地元の明光自動車が白浜までの連絡バスを運行したが、1933年12月には紀勢西線が紀伊富田駅まで延伸、黒潮号も白浜温泉の玄関口である白浜口駅(現・白浜駅)へ足を伸ばした。阪和電鉄線内ではノンストップ超特急と同様に45分運転、紀勢西線でも東和歌山-白浜口間ノンストップで2時間9分運転(上り列車に関しては紀伊田辺に停車して所要2時間12分)という、単線で急カーブが多くなおかつ当時ローカル線規格であった同路線の蒸気機関車列車としては限界一杯の運転が行われ、天王寺から白浜口までの170km弱が3時間で結ばれた。 1934年11月17日からは南海鉄道難波駅発の黒潮号も運転を開始し、両社から直通の客車が東和歌山駅で併結され、共に白浜へ向かうようになった。また、この改正で新たに「日曜列車」「平日列車」と呼ばれる南紀直通列車が増発され、18日日曜、19日月曜よりそれぞれ運行を開始した。両列車は1935年3月29日の紀伊椿駅(現・椿駅)延伸で同駅まで運行区間を延長したが、1936年19月30日の周参見駅延伸の際には効率化のため白浜口駅で阪和・南海直通客車を切り離す運用に変更されている。 土曜に大阪を発車し日曜に返ってくる黒潮号は週末旅行に最適で、当時の関西方面の人々から大好評であった。しかし日中戦争の勃発により、このようなリゾート列車は不急不要の贅沢とされ、黒潮号の定期運行は1937年12月のダイヤ改正で廃止された(季節臨時運転は継続)。日曜列車・平日列車も統合され、阪和天王寺駅・難波駅 - 周参見駅間1往復に削減された。1938年9月7日の紀勢西線江住駅延伸の際には往路4列車が白浜口行き、復路5列車が江住発に変更され、阪和・南海直通客車は再び白浜口までの運行となった。 その後、1940年8月8日の紀勢中線編入で運行区間が新宮駅・紀伊木本駅(現・熊野市駅)まで延長され、本数も3往復に増発されたが、この時点で既に阪和電気鉄道の南海併合(後述)が決定していたこともあり、乗入れは阪和のみで南海との直通は廃止された。
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