南発の戦後処理
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1945年8月15日の日本敗戦で、南方占領は終了した。軍政下におかれていた南方甲地域のうち、平和裏に降伏したジャワとマラヤにおいては、極力南発券を回収しようと、現地軍が軍と日本事業者に手持ち物資を高値で売却するよう命じた。南発から借りている事業者と現地軍は、南発からの借入金を回収した南発券で返済した。ジャワでは同年8月17日インドネシア共和国が独立を宣言した。連合国の主力部隊が同月下旬に到着した。28日に第16軍は連合軍降伏文書と受領した。連合国は当初インドネシアの独立を承認する意向を示していたが、しかしオランダが植民地支配を継続しようとしてインドネシア独立戦争が起きてしまった。ジャワに上陸した連合軍は英軍が中心であったが、英軍はジャワにおける当座の市中用現金を持ち込まなかったので、南発券の流通をそのまま認めた。英軍がジャワを占領すると、その必要とする現金を南発から調達した。その調達額は1945年12月14日現在でおよそ5億ギルダーに達した。この南発券は英軍・蘭軍のジャワにおける軍用もしくは統治用通貨として利用された。ジャワの日系銀行では横浜正金銀行ジャカルタ支店だけが営業していた。日系企業は銀行借入金の返済を急いだが、他方で南発は新規融資にも応じた(南発命令融資)。スマトラ島でも南発券の流通がそのまま認められた。そして連合軍に300万ギルダーを供給した。さらに南発スマトラ支金庫は手持ち未発行券まで連合国側に引き渡した。ジャワの南発スラバヤ出張所は1945年10月インドネシア政府が強制清算させた。預金は大口だけでも台湾銀行スラバヤ支店の500万ギルダーと正金スラバヤ支店の300万ギルダーが払い戻された。これと別に4億ギルダーの支払をインドネシアへの財政貢献として命じられた。 マラヤはジャワ・スマトラと反対に、あっさりとした結末を迎えた。1945年9月5日に英軍が上陸し、即日モラトリアムを施行し、6日に南発券の無効を宣言し、マラヤにおける南発券は一挙に無価値となった。英領マラヤの横浜正金銀行店舗は9月15日に閉店した。マラヤには9トンの海峡ドル紙幣がシンガポールに持ち込まれていた。ビルマでは地域と時期により南発券の扱いがまちまちであった。流通禁止から英軍法貨とルピー南発券の等価交換にわたる差異が生まれた。フィリピンでは1945年1月6日に正金マニラ支店を閉鎖し、正金行員・南発行員は南方総軍に随伴してルソン島で事務所を開いていた。米軍がフィリピン全土を占領すると、南発券の無効を宣言した。日本では9月30日GHQ覚書が同日付で南発の閉鎖を命じた。1946年3月8日、南発は閉鎖機関に指定された。
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