南疆
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2017/06/07 14:18 UTC 版)
天山山脈山麓部の都市を除いて南疆の大部分は砂漠で占められており、東チャガタイ・ハン国の王族で南疆を統治したものは少なかった。1514年まで、南疆の都市はドグラト部のアミールやナクシュバンディー教団の指導者がハンの名前の元に統治していた。1514年にスルタン・サイードがハンを称した後、彼の子孫はは南疆を本拠として直接統治を行うようになる。南疆の都市を首都とした政権として、ヤルカンド・ハン国、カシュガル・ハン国が挙げられる。 南疆西部のイスラム教化したオアシス都市群を指して使われる「アルティ・シャフル」はトルコ語で「六城の地」を意味する語であり、 1860年代のヤクブ・ベクの乱の際に流行した。帝政ロシアのチョカン・ワリハーノフは、ヤルカンド、カシュガル、ホータン、アクス、ウシュトゥルファン、イェンギサールをアルティ・シャフルの「六城」に比定した。一方、ドイツの考古学者アルベルト・フォン・ル・コックはワリハーノフの推定する六城の中からウシュトゥルファンとアクスを外し、それに代わる町としてマラルベシと葉城を加えた。ヤクブ・ベクの乱当時はトルファンがウシュトゥルファンに代わる町とされ、また"Alti-Shahr"は7つの町を指して使われたことを記す史料も存在する。アルティ・シャフルの定義はモグーリスタンよりも厳密、北は天山山脈、南は崑崙山脈、西はパミール高原、東はクチャ東部が、アルティ・シャフルと他地域の境界とされている。
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