南皮で戦死
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/13 17:51 UTC 版)
翌9年(204年)、袁尚は再び袁譚を攻撃してきた。しかし、曹操がその隙を衝いて鄴を包囲したため、袁譚は危機を逃れた。曹操が鄴を包囲してる間に、袁譚は甘陵・安平・勃海・河間を攻略した。さらに、鄴を放棄して中山郡へ逃れた袁尚を撃ち破って、袁尚の率いていた軍兵を併合し、急激に勢力を拡大した。だが、曹操は袁譚を盟約違反と非難し、袁譚の娘を送り返して縁戚関係を解消した上で、これを討伐した。事態の急転に袁譚は怯え、平原から逃走して南皮に逃げ込んだ。 翌10年(205年)、袁譚は南皮で一度は曹操を破ったが、その後の再戦に敗れた。袁譚は、必死で馬を馳せて逃走したが落馬、追撃してきた曹純に「私はおまえを富貴にしてやることができるぞ」と命乞いした。しかしそれも空しく、その場で斬首された。袁譚の一族も皆殺しとされ、袁譚の首級は獄門とされた。その後、遅れて駆けつけた王修は、死罪を恐れずに獄門の下で慟哭し、曹操に袁譚の遺骸埋葬を願い出て許可されている。
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