南北統一
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即位後のシェションク1世は、ラムセス11世以降、南北に分断されていた国家の再統合に乗り出した。 アメンの大司祭職の世襲を廃止し、次男のイウプトをアメンの大司祭の地位に就け、上エジプトの長官と軍司令官の地位を兼任させた 。神官団は事実上の独立国家として上エジプトを支配下に置いていたが、この政策によってブバスティスから統治する王の監視下に置かれる形となり、王権は再び一つに統合された。また、長男のオソルコンを後継者に選び、三男ニムロト(ニムロトB)を中部エジプトのヘラクレオポリスの軍団長に任命した。 婚姻と血縁関係に基づいて部族全体を統括する手法は、王の祖先であるリビア人社会の伝統であった。シェションク1世はこの伝統を自らの政策として用いることで、自分の親族を要職や地方の支配者に据え、一族の支配を盤石なものにしようとした。彼の後継者たちも、その伝統を受け継いでいくこととなったが、こうした複雑な婚姻政は後に王朝の再度の分裂を招く遠因にもなった。
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南北統一
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/20 08:55 UTC 版)
既に北周武帝により南北統一への道筋は引かれていたが、慎重な文帝は細かい準備を丹念に進めた。当時、南朝陳では宣帝が北周末期より江北への進出を試みていたが、文帝は陳の間諜を捕縛しても衣服や馬を給して厚く礼をして送り返し、陳とは友好関係を保つようにしていた。582年、文帝は陳に対して討伐軍を送り出したが、この年に宣帝が崩御したこともあり、討伐を中止して使者を派遣して弔意を表して軍は撤退した。 北の突厥に対しては長城を修復して防備を固める。584年に突厥が北方で暴れると、文帝は長城を越えて突厥を攻撃し、その後文帝は突厥内部に巧みに介入して東西に分裂させた。 そして淮河と長江を結ぶ邗溝(かんこう)を開削して補給路を確保する。更に、かつて南朝梁から分裂し、北朝の傀儡政権となっていた後梁を併合して前線基地を作る。また文帝は連年にわたり農繁期になると軍を南下させる気配を見せて陳軍に常に長江沿岸に大軍を配置させることを繰り返させることで人心を動揺させて収穫を減らさせ、更に間諜を使って民家に放火させたりした。こうして陳の国力は急速に衰退し、また皇帝が宣帝の子の陳叔宝でこれが暗愚極まりない愚帝だったため、陳は内部からも次第に崩壊の色を深めた。 588年、文帝は陳への遠征軍を出発させる。この時の遠征軍の総指揮官が文帝の次男の楊広(後の煬帝)であり、51万8000という過大とも思える大軍の前に589年に陳の都の建康はあっけなく陥落し、陳の皇帝陳叔宝は井戸に隠れているところを捕らえられた。ここに西晋滅亡以来273年、黄巾の乱以来と考えると実に405年の長きにわたった分裂時代が終結した。
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