北総開発鉄道第1期線の建設へ
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/04/02 00:22 UTC 版)
「千葉県営鉄道北千葉線」の記事における「北総開発鉄道第1期線の建設へ」の解説
ところが、1973年のオイルショックによる物価高騰や、東京都市圏の人口増の鈍化、成田新空港建設の遅延(「成田空港問題#政府の強権的な姿勢による空港建設と反対運動の開始」「三里塚闘争#闘争の激化、開港」も参照)などが災いし、ニュータウン建設の資金調達がおぼつかなくなる。 同年11月、県は運輸大臣に対し、第一期区間(小室 - 千葉ニュータウン中央駅)の分割施行認可申請を行い、該当区間を単線で開業させ、新京成線・北総線経由・単線(軌間・1435mm)で開業させ、常磐線松戸駅から東京都心へのルートを確保しようとした。2年後の第一次入居に間に合わせるためである。第一期区間の残る一線に本来の軌間(1372mm)を敷設した上で全線開業(この時点で北総線との直通を中止)し、そののち先行開業区間を改軌して完成とする計画としていた。 1974年10月に第二期区間の本八幡駅 - 小室駅と、千葉ニュータウン中央駅以東の分割工事施行の認可を受ける。この時に「北千葉線」と命名される。 当初は第三期区間として、印旛松虫から成田ニュータウンを通り成田駅方面まで建設する計画もあった。当時の資料では印旛沼を4.6kmの高架線で通過し、成田ニュータウンを堀割で抜ける予定であったという。しかし、先の審議会答申15号では10号線の終点が、千葉ニュータウンであったことが影響してか、千葉県は印旛松虫以東10.2kmの申請を保留することになった。これは、成田新幹線の建設と、その途中駅としての千葉ニュータウン駅の設置も大いに関係している。すなわち、空港への運輸は主として新幹線が担うものとされたためである(「成田新幹線#設置予定駅」「千葉ニュータウン中央駅#歴史」も参照)。 1975年(昭和50年)、宅地開発公団は船橋市の小室区域から北千葉線の工事に着手した。だが。地価や資材の高騰により、1973年段階では本八幡駅 - 印旛松虫730億円の工事費が、1977年には2031億円にまで跳ね上がる。原因として、企業庁による小室駅 - 新鎌ケ谷駅間の土地収容率がわずか4割であったことがあげられる。 1978年(昭和53年)新宿線と接続させる計画になっていたが、地下鉄の全通時期が未定のまま、同年1月には宅地開発公団法を改正し、小室駅 - 印旛地区(印旛松虫)間の免許を宅地開発公団に譲渡する協定が結ばれた。本八幡駅 - 小室駅については、この時点で県が建設を凍結した。3月には、同公団と千葉県の共同で住宅開発を行うことが決定する。また裏では建設省も動いていて、宅地開発公団を日本住宅公団と統合する方向を決めていた(「宅地開発公団#業務」「住宅・都市整備公団#業務」を参照)。 1979年3月に、宅地開発公団と北総開発鉄道の手により北初富駅 - 小室駅間が開通、新京成線と乗り入れを開始した(「北総鉄道北総線#沿革」「北総鉄道#歴史」を参照)。
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