北緯38度以南の朝鮮からの引き揚げ
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/02 05:40 UTC 版)
「引き揚げ」の記事における「北緯38度以南の朝鮮からの引き揚げ」の解説
米軍は、朝鮮半島から全ての日本人を本国へ送還する方針を立てていたが、まず、優先されたのは軍人の復員であった。連合軍が何より軍人の復員を重視し、ポツダム宣言では、日本軍の即時武装解除と早期本国帰還が条件として挙げられていたが、民間人については何も触れられていなかった。朝鮮半島では、降伏文書調印以後、第17方面軍に所属する部隊の武装解除も進んでいったが、米軍の進駐が緩慢だったために、全ての部隊の武装解除と復員が完了したのは、10月に入ってからであった。 そして、この直後から在朝日本人民間人の引き揚げ計画が始まった。10月3日にアーノルド軍政長官が在朝日本人の本国送還を発表したことを機に、民間人の引き揚げが本格化する。北朝鮮から脱出してくる日本人を除いて、1946年春までに40万人にものぼる南朝鮮にいた民間人のほとんどが朝鮮半島から日本へ引き揚げて行った。その一方で、日本からは多くの朝鮮人が故郷へ向け帰還していった。そして、この間に、8月24日に朝鮮人徴用工を乗せた「浮島丸」が下北半島から朝鮮へ向かう途中、舞鶴港で爆沈して日本人船員25人を含む549人が犠牲となった。 10月14日には、朝鮮半島からの日本人を乗せた「珠(たま)丸」が壱岐勝本沖で爆沈し、545人以上が犠牲となった。この二つの海難事故は、日本の海難事故史上「洞爺丸事故」(1954年、死者・行方不明者1155人)に次ぐ規模の海難事故である。
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