労働組合の対応
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/05 20:26 UTC 版)
このスト権ストで組合側は敗北し、国労・動労は組織防衛の観点から政府側との全面対決を避け、高木総裁時代以降は微笑外交に転じ、スト戦術からの転換を図ってゆく。この内、国労は上述のように内々にスト放棄を決めていたが、様々なセクトが入り込んで組織として統一が取れなくなっていたため@media screen{.mw-parser-output .fix-domain{border-bottom:dashed 1px}}その後もスト放棄を決められなかった[要出典]。世間からは「こんなことまでする組合は許せない」「こんな組合を甘やかしてきた経営側も許せない」などの批判が保守派を中心に噴出し、ストに対する抗議デモも実施された。ストに反対していた同盟はこれを組織拡大の機会と捉えていたが、鉄労の組織比率は民営化・人員整理への動きが一挙に進捗する1980年代まで低迷した。 1974年に23日に達していた国鉄の年間スト延べ日数は、スト権スト以降、1976年には8日、1977年には6日と急減した。 しかしながら、スト後も1970年代を通じ、国労・動労は貨物部門を含めて人員整理に反対を継続しており、富塚も当初は国鉄からストの賠償訴訟が出された場合、貨物中心に抵抗闘争を実施すると公言し、自動車、鉄鋼、石油など大企業の長大貨物列車に狙いを定めるとしていた。こうした国労・動労の姿勢は国鉄外や経営側ばかりでなく、鉄労からも批判された。一例として、1980年4月の運賃値上げの際には、経営側は増収見込みを1,160億円と見積もっていたが、鉄労はこの数字を70年代後半に国労・動労が打ったストによる直接的な減収1,034億円と並べて「間接的損益を含めると、今回の増収見込み額を遥かに超えてしまいます。」「自ら減収を招くようなストを打ちながら、値上げにも反対では、スジが通りません。」などと意見広告で述べている。この表から、76年度以降も頻度が減少したにも係らず、3年分を合計すると538億円と、スト権ストを上回る直接的な減収があったことが分かる。 「国鉄ストによる減収額」年度ストライキ件数運休本数(客貨合計)減収額(単位・億円)1975年 9 272,549 496 1976年 6 74,525 185 1977年 8 30,979 126 1978年 11 78,133 227 4ヵ年合計 34 456,185 1,034 しかし、こうした輸送量の急速な減少と貨物経営の悪化は組合にも危機感を与え、動労は組合員の職場を守る目的で、1978年(昭和53年)7月の全国大会で「貨物安定輸送宣言」を行って、貨物列車をストライキの対象から外す方針を打ち出した。
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