労働組合の成立
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/07 03:11 UTC 版)
戦後、大嶺炭田の各炭鉱では次々と労働組合が結成されていった。山陽無煙炭鉱ではまず1946年(昭和21年)1月19日に会社の職員による山陽無煙現場組合が結成された。2月11日には職員、鉱員合同の山陽無煙労働組合となるものの、4月には職員組合は分離して山陽無煙職員労働組合となった。その後山陽無煙炭鉱では職員と鉱員の組合は最後まで並立した。 前述のように、戦後まもなくの無煙炭不振時期、賃下げの他に大明炭鉱、美豊炭鉱、榎山炭鉱、滝口炭鉱、美福炭鉱、萩嶺炭鉱の諸炭鉱では人員整理が行われた。経営側の賃下げ、人員整理に対抗して大明炭鉱、榎山炭鉱では労働争議が起きた。そして賃金問題をめぐっては1948年(昭和23年)からしばしばストライキが行われた。 1952年(昭和27年)10月から12月にかけて、日本炭鉱労働組合の63日間のストに山陽無煙炭鉱の職員、鉱員の組合は揃って参加した。スト期間中は収入の道が断たれるため、山陽無煙炭鉱の楽劇団のメンバーたちは山口県内を巡業して生活費を稼ごうと考えた。彼らはニューホープと名付けた新楽劇団を結成し、山口県内の各地を回り、歌、踊り、劇、漫談を上演した。しかし出費がかさんだため結局赤字となって、スト期間の収入を得るというもくろみは失敗に終わった。 山陽無煙炭鉱の鉱員組合は、1956年(昭和31年)3月に日本炭鉱労働組合の大手13社の統一闘争に参加してストを行った。これに対して会社側はバリケードを築き、ロックアウトを行うという強硬手段に出た。会社側との対決が激化する中で、かねてから日本炭鉱労働組合の体制に対してくすぶっていた不満が爆発し、ストを解除して日本炭鉱労働組合から脱退する。そして1957年(昭和32年)4月、山陽無煙労働組合は全国石炭鉱業労働組合に加盟する。
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