前震・余震
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本震の約1週間前の8月6日頃から小規模な地震活動が発生しており、本震の約1分前にはMw 6.2の前震が発生した。余震活動は活発で、最大イベントは本震から約3日後に発生したMw 7.1。
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前震・余震
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/04/12 08:00 UTC 版)
『後愚昧記』、『後深心院関白記』(『愚管記』)、『忠光卿記』、および『斑鳩嘉元記』など複数の史料に、本震の3日前および2日前、京都・畿内において強い地震の記録がある。『日本被害地震総覧』や『理科年表』は「前震か?」としており、それが事実なら南海トラフ沿いの地震とされるものとしては確認できる唯一の前震の例となるが、この見方は誇張や誤りが多い『太平記』や『続本朝通鑑』の記述を鵜呑みにした史料批判精神に欠く今村明恒の見解による。 6月22日の地震は京都および大和で強震であり、法隆寺の築地が崩れ、天王寺の金堂が倒れる。『太平記』によれば6月18日頃、『後愚昧記』、『春日若宮神殿守記』によれば6月16日頃から畿内付近で地震が頻発した。 正平16年6月21日酉刻(1361年7月23日18時頃[J]、7月31日[G])- 京都で地強く震う。 正平16年6月22日卯刻(1361年7月24日6時頃[J]、8月1日[G])- 京都および大和で地強く震う。 史料によれば正平16年6月24日の他に、6月16、18、20、21、22、25(天王寺金堂倒壊)、26日、7月24日(摂津難波浦の津波、太平記36)、8月24日(山王寺伽藍倒壊、太平記36、本朝通鑑142)などの地震被害記録があり、余震が多かったものと見られる。ただし、創作が多分に含まれる『太平記』やこれを基に記述された『本朝通鑑』にある7月24日および8月24日の地震記事は6月24日のものであると解釈されている。 『愚管記』、『後愚昧記』には、本地震の10日後に「地また大いに震う」とあり、観心寺に修法が命じられ、熾盛光法、尊星王法を宮中に修め、地震の厄を祓わせた。『後愚昧記』によれば6月21日、6月24日の地震に匹敵する強い揺れであったという。 正平16年7月4日申刻(1361年8月5日16時頃[J]、8月13日[G])- 京都で地大いに震う。
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前震・余震
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/04/08 03:51 UTC 版)
元暦2年6月20日夜子時(ユリウス暦1185年7月18日24時頃)にも大地震があり、翌日も3回、翌々日も揺れ続いたという。『玉葉』、『醍醐雑事記』などの記録にあり、鎌倉で記された『吾妻鏡』にも記録があることから京都および鎌倉の間で大地震が発生した可能性もあるが、各記録を総合すると『吾妻鏡』の編纂者は京都の地震記録を記載した可能性が高いとされる。 『山槐記』では7月の本震以降、9月末までの京都における余震の記録が日記形式で綴られ、翌7月10日および11日は数十度、12日は二十余度、その後も連日の様に数度の地震が記録されているが10月以降は記録が中断し記事を欠いている。特に8月12日申刻(ユリウス暦1185年9月7日16時頃)の余震は「其勢猛」と述べている。『玉葉』によれば、8月12日の余震によって少々の転倒があったという。
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