利根川東遷と水運の発展
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/07 23:04 UTC 版)
銚子河口付近は水深が浅く、潮の流れが急であったため、阿波の鳴門(鳴門海峡)、伊良湖渡合(伊良湖岬)と並ぶ海の三大難所と言われていた。そのため、海難事故が古来より多発している。このため、江戸時代以前は内海で漁獲をすることがほとんどであった。 江戸時代初期に入ると徳川家康江戸入府の1590年(天正18年)後、徳川氏によって行われた利根川中下流の付け替えにかかわる一連の河川改修として利根川東遷事業が行われた。1621年(元和7年)の新川通開削および赤堀川の開削開始から、1654年(承応3年)の赤堀川通水まで工事が行われ、これにより、利根川の水は太平洋への分水嶺を越えて常陸川へ十分な水量が流され、太平洋へ注ぐ銚子河口まで繋がる安定した江戸の水運が成立し、 銚子河口(常陸川最下流)に位置していた銚子は活気づくことになった。 利根川東遷事業による江戸への水運の確保により、近畿地方(令制国上の畿内、特に紀伊国・和泉国・摂津国など)から漁民が大量に出漁してきた。以後、鰯漁が大漁であったことから、銚子にも定住する人々が増えるようになる。房総沖(太平洋)は近代に至るまで鰯の漁獲地として知られ、かつ背後に広大な農地を持つ穀倉地帯である関東平野・九十九里平野がひかえ豊富な資金力と必要時のみ動員できる労働力などの社会的条件を求め、紀州などの漁民が旅網や移住などの形で房総半島や九十九里浜沿岸に進出してきた。鰯などの近海魚を江戸に供給するとともに長く干鰯の産地として知られるようになる。 この頃、銚子半島の先端南部に位置する外川漁港も、江戸時代前期の漁師である紀州藩の崎山次郎右衛門によって、1658年(万治元年)と1661年(寛文元年)の2期にわたり、外川浦に完成する。屋号は大納屋。次郎右衛門は故郷から多くの漁師を呼び寄せ、漁業と海運を営み、当時の盛況ぶりは「外川千軒大繁昌」と語り継がれている。
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