利根川改修計画
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2019/10/30 16:17 UTC 版)
利根川の洪水による被害は水郷地域に限った話ではなく、明治時代に入ってから何度か改修計画が出された。最初の利根川改修計画は、お雇い外国人のローウェンホルスト・ムルデルが1886年(明治19年)に作成したものだった。この計画書の中では、利根川と横利根川との合流点の改修について記されているが、工事内容としては現状を保持するものであった。 このムルデルの改修計画は、(1)通船のため、(2)破堤・越水を防ぐため、(3)下流低地の一部を開墾に適するようにするため、という3つの目的が掲げられていた。このうち、通船のための工事は低水工事、堤防などによって洪水などの被害を防ぐ工事は高水工事と呼ばれる。明治中期まで、利根川の工事は低水工事が主であった。ムルデルの改修計画の際にも、1887年度(明治29年度)から工事が始められたが、実際に工事がなされたのは主に低水路整備などで、洪水防御のための工事は着工されなかった。 低水路整備は、利根川流域における蒸気船の就航を後押しした。一方で、堤防などによる治水を求める声も強かった。この声は全国的にも強く、1890年(明治23年)に開設された帝国議会では治水を求める請願が142件寄せられた。これは全請願の1割以上にあたる。その後、1896年(明治29年)の河川法制定によって高水工事の国庫負担が可能になると、国による治水工事の動きが全国的に高まった。 利根川においても、1900年(明治33年)に今までの計画を打ち切り、新たに国による改修事業が始まった。この事業は内務省技師近藤仙太郎の計画に基づくもので、全体を三期に分け、一期は利根川河口から佐原まで、二期は佐原から取手まで、三期は取手から芝根村までとしている。横利根閘門が造られる場所は、この中では二期にあたる。 ただし、この計画が立てられた時点では、横利根川と利根川の合流地点の川幅を広げて逆流量を減らすことは記載されているが、閘門を造ることは記されていない。この利根川改修計画は、1910年(明治43年)に起こった大洪水によって内容が見直されることになるのであるが、横利根閘門はその時点ではすでに建造が決まっていた。そのため、1910年以前、おそらくは1907年(明治40年)の第二期工事が始まるときに建造が決まったものと推定されている。また、閘門建造決定にあたっては、利根川改修計画に先立って1896年(明治29年)に始まった淀川改修工事において大規模な水門・閘門が造られたことが影響しているとも推定されている。 閘門建造の目的は、利根川増水時に横利根川を通じて霞ヶ浦沿岸に氾濫をもたらしていたことから利根川と霞ヶ浦を分断するため、また増水時にも舟運に支障を来たさないようにすることにあった。旧来、霞ヶ浦は印旛沼などと共に、洪水時には遊水池としての役割を果たしていた。利根川改修計画ではこれらの湖沼に川の水を逆流させず、利根川の洪水は利根川のみで処理する方針が立てられた。横利根閘門の建造はこの考えに基づくものでもあった。 しかし閘門を締め切ったとき、今まで霞ヶ浦から横利根川に流れていた水はすべて北利根川に流れることになる。そこで、茨城県は同時期に北利根川の改修工事を施工することにした。
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