初期の提案
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/10 15:05 UTC 版)
沿岸警備隊基地閉鎖の発表とともに、当局と開発者が開発計画を提示し始めた。ジュリアーニ市長はガバナーズ島にカジノとホテルの建設を検討した。他の計画には島を博物館として保存する、公共の公園に変える、自由港を創設する、教育キャンパス、刑務所、遊園地、ゴルフ場、ナイトクラブ地区までも建設することを伴うものもあった。1996年、ヴァン・アレン研究所 (Van Alen Institute) は「パブリック・プロパティ」と呼ばれるアイデアコンペを主催し、200件超の応募を集めた。2000年、公共利用目的で島を維持することで市と州の間の合意に達した。この間、連邦政府は年間2,000万ドルで島の維持を継続していた。 2001年1月19日、クリントン大統領はジェイ砦とウィリアムズ城を含む22エーカー(8.9ha)の地域をガバナーズ島国定史跡(ナショナル・モニュメント)に指定した。この史跡はアメリカ合衆国国立公園局によって管理されている。その翌年、ガバナーズ島が公共財産になることが発表されたが、2002年のニューヨーク州知事選挙により島の移管が遅れた。2003年1月31日、島の残り部分150エーカーならびに水中陸地32エーカーが「ごく僅かな金額(1ドルとも報じられている)」で売却され、市と州の合同機関であるガバナーズ島保護教育公社(GIPEC)の管理下に置かれた。この移譲には、島での恒久的居住やカジノを禁止する行為制限が含まれていた。この協定はまた、40エーカー(16ha)の土地を公園として使用し、他にも50エーカー(20ha)を「市民教育や文化教育」目的で使用しなければならないと規定していた。実際、この活動制限がガバナーズ島における長期的開発の大半を妨げている。 再開発の進捗は遅かったが、2006年初頭に知事ジョージ・パタキと市長マイケル・ブルームバーグがガバナーズ島を保護するためのアイデアコンペを開始した。この時期に、国立公園局とGIPECはガバナーズ島の一部で修復を開始した。護岸修理やアスベスト除去など、島を公共用途に改造するための建設が主に必要とされた。 2006年までに、GIPECは最初のテナント2つにリースを提供した。2005年に一般公衆が島への来訪を初めて許可され、その年に8千人の訪問者がやって来た。当初、ガバナーズ島は夏季の週末にだけ開放されていた。自転車とフェリーサービスは、来訪者を誘致するため無料になっていた。美術展示は後に追加された。
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