出身・家系とは? わかりやすく解説

出身・家系

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/19 00:49 UTC 版)

豊臣秀吉」の記事における「出身・家系」の解説

秀吉の父・弥右衛門百姓だったというが、百姓 = 農民とするのは後代用例であり、弥右衛門主たる生業織田家足軽だったとする説がある。太田道灌北条早雲軍制重用され足軽急速に全国広まっていた。ただし、小和田哲男は、秀吉は元々苗字持ちでなく、木下家利の婿養子名目木下祐久改名した杉原定利の娘おねと結婚したことで「木下藤吉郎秀吉」を名乗るようになったという説を紹介している。つまりそれ以前苗字名乗る地盤すら持たない階層だった可能性指摘されている。 『フロイス日本史』では「若い頃は山で刈り、それを売って生計立てていた」、『日本教会史』には、秀吉は「木こり出身と書かれている。また小説家八切止夫は、秀吉は「端売り出身で、わざとそのことを示す羽柴(=端)に改姓し自分が本来低い身分なのだとアピールすることによって周囲からの嫉妬避けようとしたのだと推測している。小説家井沢元彦は「当時西洋人からは端売り木こり見えたのだろう」と両者整合する説をとっている。 小牧・長久手の戦いの際には、徳川家康重臣榊原康政が、「羽柴秀吉野人の子、もともと馬前走卒過ぎずしかるに信長公の寵遇受けて将師にあげられると、その大恩忘却して、子の信孝公を、その生母や娘と共に虐殺し、今また信雄公に兵を向ける。その大逆無道目視する能わず我が主君源家康は、信長公との旧交思い信義重んじて信雄公を助けんとして決起せり。」と秀吉出自からめて批判する檄文発したという。 秀吉は他の大名同様に側室置いていたが、正室であるねねとの間にも、側室との間にも子供生まれず、実子の数は生涯通じても非常に少なかった秀吉との間に子供ができなかった側室達には、前夫との間に既に子供がいた者、秀吉離縁あるいは死別し再婚してから子供ができた者が幾人かいる。そのため秀頼は秀吉の子ではなく淀殿大野治長など他の者と通じて成した子だとする説がある。これについては、秀頼だけでなく鶴松時点そうした噂があった。 秀吉子宝恵まれなかったが、実は長浜城時代に1男1女を授かっていたという説がある。男子南殿呼ばれた女性の間に生まれた子で、幼名石松丸、後に秀勝といったらしい長浜毎年4月(昔は10月)に行われる曳山祭は、男子生まれたことに喜んだ秀吉から祝い砂金贈られ町民が、山車作り長浜八幡宮祭礼に曳き回したことが始まり伝えられている。石松丸秀勝夭折したが、その後秀吉次々と二人養子に秀勝の名を与えている(於次秀勝小吉秀勝)。長浜にある妙法寺には、伝羽柴秀勝像という子の肖像画や秀勝の墓といわれる石碑位牌残っている。女子の方は名前その他の詳細一切不明だが、長浜市内にある舎那院所蔵弥陀三尊懸仏の裏に「江州北郡 羽柴筑前守殿 天正九年 御れう人 甲戌歳 奉寄進御宝前 息災延命 八月五日 如意御満足八幡宮」という銘記があり、これは秀吉天正2年1574年)に生まれた実娘のために寄進したものだと伝わっている。ただし今日舎那院では、これが秀吉の母・大政所のために寄進されたものである説明している。しかし『多聞院日記によれば大政所文禄元年1592年)に76歳で死去しているので年代齟齬生じる(「御れう人」とは麗人のことであり、76歳の老人にまで解釈が及ぶものかどうか疑問であり、秀吉女児生まれた考える方が自然と思われる)。

※この「出身・家系」の解説は、「豊臣秀吉」の解説の一部です。
「出身・家系」を含む「豊臣秀吉」の記事については、「豊臣秀吉」の概要を参照ください。

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