出世・逮捕
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/07/04 05:57 UTC 版)
1962年(20歳)、ゲイシーは父の車を貸してもらおうとしてスタンリーと口論(大喧嘩)となり、「もうアンタにはウンザリだ!!!」と言い残しラスベガスへ家出した。母が引き取りに来るまでの3か月間、葬儀屋のアルバイトを勤めた。昼間はここで死体に防腐処置を施すための血抜きを手伝い、夜は死体を安置している処置室の隣に置いてある簡易ベッドで寝起きした。 後に「そのころのゲイシーは若者の死体を見ると胸が疼き、それも少年の死体だと、異様な感覚に支配され、仕事に慣れてくると、自分の気に入った少年の死体が入った棺中に潜り込み、死体の皮膚に身を寄せていた」という話がマスコミによって作り上げられるが、ゲイシー自身はこれを否定している。ゲイシー本人によると、死体置場には住んでいたが、死体と一緒に寝ていたことや屍姦していたというのは大嘘であり「馬鹿馬鹿しい」と一蹴している。 その後シカゴへ帰郷したゲイシーは、ビジネスの専門学校へ進んだ。卒業後は大手靴販売店のセールスマンとして就職。入社して間もなく抜群の営業成績を上げたことで、若くしてエリアマネージャーに抜擢された。またゲイシーはアメリカ合衆国青年会議所(英語版)の有力会員でもあり、会議所の貯蓄販売券の販売でも優秀な成績を残し、その2年後には州全体で3番目の活動実績を挙げたとして第一部長に就任している。1964年(22歳)にはマリリンという女性と結婚してアイオワ州に移った。そこで妻の父親が所有していたケンタッキーフライドチキンの3店舗のマネージャーを兼任するようになり、ビジネスに地域活動に八面六臂の活躍をし、人望も厚かったゲイシーは青年会議所の次期会長選出が確実視された。ビジネスマンとして多忙を極める中、1年間で青年会議所の多数のプロジェクトを立案・実行にあたった。また、地元でのボランティア活動にも積極的に加わり、常に精力的に動き回るゲイシーをいつしか周囲は「眠らない男ゲイシー」と畏敬の念をこめて呼び、会頭候補にまで登り詰めた。これほど働いたのは、父スタンリーに自分を認めてもらいたいという彼なりの愛情でもあった。 ゲイシーは結婚する少し前、一緒に酒を飲みに行った男性と無意識のうちにオーラルセックスに耽った。ゲイシーは、父から言われ続けてきたことが現実のものとなったことに深い恐怖と嫌悪を抱いた。その3年後、青年会議所会員の息子で15歳になるドナルド・ヴァリューズを「ポルノ映画を観よう」と誘って、地下室で関係を持った。事が済んでからゲイシーはヴァリューズに金を払ったが、その後もヴァリューズはゲイシーのもとをしばしば訪れ、何かと理由をつけては金を要求するようになった。ゲイシーはそのたびに金を支払い、性交した。しかし会頭選挙を目前に控えたころ、このヴァリューズが訴え、ゲイシーは反自然性交の容疑で逮捕された。 1968年(26歳)に少年への性的虐待の罪で服役することになる。その間にマリリンが離婚を提訴し、受理されたことで結婚生活は終わりを迎えた。 実刑判決を受けて収監されるが、わずか7か月で高校卒業の資格を取り、さらに大学の通信教育で心理学などの単位を取得する。また刑務所内の青年会議所の法律相談員として、待遇の改善に関する2つの法案を州議会に通した。実績と模範囚としての態度を買われたゲイシーは懲役10年の判決にもかかわらず、わずか16ヶ月で出所となり、イリノイ州に戻った。だが、服役中の1969年(27歳)、父スタンリーが肝硬変で死去し目標を失った。
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