冬の時代と新鋭たち
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/11/05 23:23 UTC 版)
「日本のボクシング史」の記事における「冬の時代と新鋭たち」の解説
1981年に具志堅、上原、大熊が3か月の間に王座を失うと日本は再び世界王者不在の時期を迎えた。同年11月に三原正が米国での王座決定戦で世界王者となり、12月には渡嘉敷勝男が世界王座を獲得するが、渡嘉敷の初防衛戦を前に、彼の所属する協栄ジムの会長・金平正紀が具志堅の対戦相手に薬物を投与していたとされる騒動が起こり、その評価は貶められることになった。1982年4月に世界王者となった渡辺二郎は、1985年12月には韓国で日本人初となる海外防衛に成功した。 1980年代には友利正、小林光二、新垣諭、浜田剛史、六車卓也、井岡弘樹らが世界王者となったが、アジアでプロボクシングをリードするのは経済成長を遂げて1988年ソウルオリンピックを控えた韓国に移っていた。日本開催の世界戦は1983年には10試合(IBFの王座戦は除く)行われていたが、1984年は5試合、1985年は渡辺の防衛戦のみで1961年以来となる2試合しか行われず、1986年も4試合のみだった。1985年11月にはJBCが義務付けた頭部CTスキャン検査の結果、8名が透明中隔腔のために不適格と診断され、引退を余儀なくされている。1987年末のアジア圏では、世界王者が韓国3名、タイ2名、日本1名(井岡)で、OPBF王者は韓国7名 (±0)、タイ2名 (-2)、日本2名 (+2)、フィリピン1名 (±0)、インドネシア1名 (±0) であった(括弧内は前年との差)。ただし、韓国では国内王座、東洋太平洋王座を経て世界王座に挑戦する傾向が比較的保たれ、日本やタイでは東洋太平洋王座を通り越して世界王座に挑戦する傾向が強まっていることを『リン』誌東洋地区リポーターのジョー小泉は指摘している。 1988年3月21日にはマイク・タイソン対トニー・タッブス戦が行われた。タイソンは試合より1か月以上も前の2月17日に日本に到着し、マスメディアは大騒ぎとなった。しかし、1988年11月13日に井岡が王座を失うと日本には再び現役王者が不在となった。王者不在のまま新年を迎えたのは1964年以来で、年間最優秀選手が該当者なしという結果になったのは1961年以来のことであった。日本のプロボクシングはかつてないスランプを迎え、この1980年代は「冬の時代」と呼ばれた。 1988年に開催された年間興行数は前年度の104から132に増えた。地域別では関東・東北82 (+3)、関西31 (+15)、中部9 (+6)、西部10 (+4) で(括弧内は前年との差)、渡辺、六車、井岡らの世界王者に加え、赤井英和、串木野純也らのスター選手を擁して人気が定着しつつあった関西では大幅な増加が見られた。1988年に開催されたタイトルマッチは世界王座戦が11試合 (+7)、東洋太平洋王座戦が6試合 (+2)、日本王座戦48試合 (+3) といずれも増加している(括弧内は前年との差)。WBA・WBCが承認した77の世界戦の開催地は米国29試合、韓国13試合、日本11試合、イタリア8試合、オーストラリア3試合、タイ2試合、メキシコ1試合で、タイには4人、メキシコには6人の世界王者が存在していたが、11月には世界王者不在となった日本に比べ、自国開催の世界戦はほとんど行われていなかった。競技人気低迷に危機感をもった全日本ボクシング協会は、1990年1月に世界挑戦資格に「指名試合をクリアした日本王者」との条件を加えている。
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