再び解説者として
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/10 20:01 UTC 版)
1998年から2007年まではアール・エフ・ラジオ日本の野球解説者を務め、その間はスポーツ情報番組のラジオパーソナリティとしても活躍した。 現在は野球評論家として活動する傍ら、読売巨人軍OB会副会長を務めていた。2004年に会長である長嶋茂雄が脳梗塞で倒れて以降は事実上の会長格として活動していたが、正式な会長ではない。また、長嶋の前々任だった別所毅彦が死去した時や、前任の藤田元司が辞任した際も会長候補として名が挙がったが、就任は実現しなかった。その後、2009年に王貞治がOB会の会長に就任した。 「指導者とは自身の身体で見本を示さなければならない」を持論としており、高齢の監督・コーチ業には否定的な立場をとっているため、2000年代以降は正式な指導者として腕を振るうことは無いが、シーズン終了後には読売ジャイアンツの臨時コーチを務めており、2012年には中日ドラゴンズ・東京ヤクルトスワローズの臨時コーチを務めた。また、母校・早稲田大学の指導も熱心で、特に内野手のスローイングの指導を行っている。 また、「読売ジャイアンツの監督は生え抜きに限る」ことも持論としており、2001年シーズン終了後に長嶋が勇退した後も東京スポーツ紙上で「これからはOB会が巨人軍の再建のため遠慮なく発言する」というなど、球団経営に介入する発言を繰り返している。2005年に堀内恒夫が解任され、後任として星野仙一の名が挙がったが、広岡は大反対し、2007年に原辰徳が率いて5年ぶりのリーグ優勝を果たすと、「原が優勝してくれて心底ホッとした。原には『巨人魂』がある。やはり(巨人監督に)余所者を入れてはダメ。巨人の飯を食ったことの無い者には任せられません」と話した。 一時期、中日新聞において「広岡達朗の痛言独論」というコーナーを不定期で受け持ち、日本の野球界に対する苦言などを自らの持論を元にして語っていた。オリンピックへのプロ選手の参加にも否定的で、「オリンピックというアマチュア選手の夢を奪うことは野球界のレベルアップにはつながらない」というのが持論である。 現在はベースボール・マガジン社より発行されている週刊ベースボールにおいて「「やれ」と言える信念」という隔週連載コラムを受け持つほか、複数のニュースサイトへ記事を寄稿している。内容は野球のみに留まらず、2017年に日馬富士が貴ノ岩に暴行を働いた傷害事件に端を発する角界の一連の騒動や日大アメフト部反則タックル問題、新型コロナウイルスの流行や対応といったものを取り上げることもあり、現代文化や概念に対して拒絶的な意見を寄せることもある。
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