再びイタリアへ
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/03/03 04:09 UTC 版)
「アドリアン・ムトゥ」の記事における「再びイタリアへ」の解説
2005年1月31日に所属クラブを失ったムトゥに目を付けたユヴェントスFCが5年契約を提示、ムトゥは同クラブと契約する。このシーズンの移籍市場で新たに外国人選手を登録する枠を使い切っていたユヴェントスは、一度ASリヴォルノ・カルチョにシーズン終了まで契約させることでムトゥを手元に置くことに成功する。再起を懸けファビオ・カペッロ監督の元で地道にトレーニングを積み、翌シーズンである2005-2006シーズンには32試合に出場し7得点をあげた。しかし、クラブはカルチョ・スキャンダルにより降格を余儀なくされ、主力選手を数人放出することになる。ムトゥもその中の1人であり、ムトゥはパルマ在籍時のかつての恩師であるチェーザレ・プランデッリが指揮をとるACFフィオレンティーナに800万ユーロの移籍金で移籍することになった。 加入1年目となる2006-07シーズンはリーグ戦33試合出場で16得点、多くのアシストも決め、カルチョ・スキャンダルのペナルティにより15ポイント勝ち点を減らされたチームをリーグ5位の座に導く。このシーズン、ムトゥはイタリア全国紙のガゼッタ・デロ・スポルト紙の試合採点の平均点が最高の選手であり、イタリア放送協会やDatasportからはグッドプレーヤー賞を送られ、かつての恩師の下で復活を果たした。2007-08シーズンはリーグ戦29試合出場中17得点し、UEFAチャンピオンズリーグ出場権の得られるリーグ4位の座に貢献、加えてUEFAカップでは6得点を挙げ準決勝進出に導いた。ルカ・トーニが去った後のフィオレンティーナのエースストライカーとしての地位を確固たるものとした。 復帰後のキャリアを順調に築いていたが、2008年6月6日にFIFA特別委員会から約1700万ユーロの罰金をチェルシーに支払うことが命じられる。チェルシー在籍時に解雇理由となったドーピング検査におけるコカイン反応の陽性により、チェルシー側が「ムトゥは契約約款に違反し、クラブに1900万ユーロの経済的損失を与えた」と訴えていたためである。その後、スポーツ仲裁裁判所 (CAS) に提訴し、処分は一時保留となった。こういった流れを受け、2008-09シーズンが開幕する直前には好条件を提示したASローマと一度はサインを交わすが、プランデッリ監督の強い要請により当時フィオレンティーナ会長のアンドレア・デッラ・ヴァッレが話を白紙に戻した。このシーズンは新たに加わったアルベルト・ジラルディーノとのコンビでチームの好調を支えたが、代表戦で負った肘の怪我や、その復帰後には膝の治療等で長期離脱する。しかし出場すればチームに決定的なものを与え、リーグ戦19試合出場ながら13得点している。2009-10シーズンはリーグ開幕戦の対ボローニャFC戦で得点する。多額の罰金問題を抱え、精神的に追い詰められていた状況であったがチャンピオンズリーグの対デブレツェニVSCおいても得点し、チームの決勝トーナメント進出に貢献した。 2010年1月10日のASバーリ戦後のドーピング検査で禁止薬物であるシブトラミンが検出され、1月20日のコッパ・イタリア準々決勝・SSラツィオ戦後のドーピング検査でも同薬品の陽性反応が出た。この結果を受け、イタリア・オリンピック委員会 (CONI) はムトゥに対し9ヶ月の出場停止処分を言い渡した。シーズン終了後の6月14日に、チェルシーへの損害賠償の件でスポーツ仲裁裁判所(CAS) に提訴していたものは退けられていたことがわかり、さらにスイス連邦裁判所に提訴したが、こちらも認められずに5年におよんだ法廷での争いが終わったと報道された。 2011年6月23日にACチェゼーナに2年契約で加入し、チームトップの8得点を挙げたが、得点力不足が大きく響いて最下位に沈みセリエBに降格となった。
※この「再びイタリアへ」の解説は、「アドリアン・ムトゥ」の解説の一部です。
「再びイタリアへ」を含む「アドリアン・ムトゥ」の記事については、「アドリアン・ムトゥ」の概要を参照ください。
- 再びイタリアへのページへのリンク