共通外交・安全保障政策上級代表時代
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「ハビエル・ソラナ」の記事における「共通外交・安全保障政策上級代表時代」の解説
1999年6月3 - 4日にケルンで開かれた欧州理事会で、ソラナは欧州連合の共通外交・安全保障政策上級代表に指名された。共通外交・安全保障政策とはマーストリヒト条約によって、欧州連合の3つの柱の第2、第3の柱として導入されたものであり、上級代表には4000万ユーロの予算権限が与えられ、その多くがバルカン問題にあてられてきた。また同時に共通外交・安全保障政策上級代表は欧州連合理事会事務総長も兼務することになり、政治・安全保障委員会を取り仕切り、半年ごとに交代する議長国の引き継ぎのさいには、それがうまくなされるよう調整にあたっている。 理事会決定の取りまとめや実行のさいにも、事務総長としてその職務に携わっている。さらに欧州連合を代表し、その時々の議長国の同意の下で他国との交渉に臨む権限を与えられている。欧州理事会の指名を受けて、ソラナは同年10月18日に共通外交・安全保障政策上級代表、欧州連合理事会事務総長に就任した。 共通外交・安全保障政策の基本理念はアムステルダム条約で導入された欧州安全保障防衛政策である。先述のケルン、1999年12月のヘルシンキでの欧州理事会の会合において、軍事・安全保障行動についてまとめたペテルスベルク・タスクの遂行のために、6万人の兵力を持つ強力な欧州緊急対応部隊の創設に合意した。11月20日ソラナはさらに西欧同盟の事務総長を兼務することになった。ただし西欧同盟はヨーロッパの防衛・安全保障機関としてはほぼ活動休止状態にあった。ソラナが西欧同盟の事務総長に就任してからは活動の機会が増えたと言われているが、西欧同盟の機能は欧州連合に移管されつつあり、ソラナはこの移管の過程を監督し、また西欧同盟の共通外交・案全保障政策への部分的統合の作業にあたっている。例を挙げると、かつて西欧同盟の機関だった安全保障研究所や衛星センターは、現在共通外交・安全保障政策に移管されている。 2000年5月クリントン政権はソラナについて、ヘンリー・キッシンジャーが望んでやまなかったヨーロッパとのホットラインが実現した、と評した。2003年2月には欧州安全保障戦略を発表し、テロリズムを含めた欧州連合の安全に対する脅威を列挙、定義した。2004年3月25日、ヘイス・デ・フリースを共通外交・安全保障政策反テロリズム調整官に任命し、その使命は欧州連合のテロリズムとの対決について、整備、計画、調整することであるとした。 2004年6月29日、ソラナの職責はさらに拡大された。欧州連合初代外相の指名を受けることで、共通外交・安全保障政策と欧州委員会外交担当委員の両方をこなすこととなった(2000年5月、当時欧州委員で外交を担当していたクリス・パッテンは、ソラナの活動は職権を逸脱していると批判していた)。また2006年、欧州憲法条約の批准が完了していれば、欧州連合理事会の「副大統領」となるはずであった。このほか2004年7月12日、欧州連合加盟国の防衛支出の効率性を確保、向上させるために新設された欧州防衛機関の首脳に指名された。 ソラナは欧州憲法条約草案において新たに与えられる権限に関して批判と賞賛を受けた。そのさい、新憲法下においても加盟国の満場一致の同意がなければ、この役職はいかなる行動も認められないと反論した。 ソラナは2005年4月18日、翌月29日に欧州憲法条約批准の是非を問う国民投票を控えたフランスの学生に対し、一部のアメリカの新保守主義者は欧州憲法条約の発効を欧州の新たな力の登場ととらえているため、欧州憲法条約に反発する者がいると述べた。また5月4日には、欧州憲法条約は NATO を弱体化させる性格のものでないと発言した。欧州憲法条約の批准には全加盟国の同意が必要であるが、フランスの有権者は明確に欧州憲法条約に反対を示した。ソラナはこの投票結果を受けてもなお欧州連合は世界の舞台において重要な役割を持ち、新たな外交政策を着実に実施していくと表明した。
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