公園内の施設等とは? わかりやすく解説

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公園内の施設等

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2020/04/21 17:24 UTC 版)

相内公園」の記事における「公園内の施設等」の解説

相内神社 大正11年(1922)創建現在地への遷座昭和27年1952)。祭神天照大神豊受大神例祭日9月23日相内公園相内神社境内地囲繞する形になっている開拓記念碑(拓荒殖産碑) 公園南東部相内神社社殿向かって右手にある。大正15年1926年9月25日起工11月22日竣功12月1日除幕式執り行った総工費は5,200円。 碑石陸前国稲井現在の宮城県石巻市)の産石で高さ約4.8 m、幅約2 m厚さ30 cm重量7,800 kg下部礎石十勝産の花崗岩で、高さは約2.3 m、幅は約7.9 m。地上からの高さ約7 m。創建時はさらにその下に、玉石56.2 m2、コンクリート231 m2を敷き詰めていた。碑文の題と撰は当時北海道帝国大学総長佐藤昌介の手になり、三浦翠山が揮毫碑面背後には相内村開基者である屯田兵戸主199名、他1名の氏名があり、これは小川多聞の書である。 平和祈念碑(旧忠魂碑公園南西部相内神社社殿向かって左手、南面し国道の方を向き神社参道はさんで開拓記念碑とほぼ同一線上所在屯田区有財産、及び相内村有志浄財によって大正13年1924年10月16日竣功除幕式招魂祭行ったそれ以降毎年9月15日招魂祭行っていた。上部の「碑」の部分十勝花崗岩自然石下部台石同じく花崗岩切石最下部礎石留辺蘂産の軟石。側面神社側)には建立携わった人々の名前が刻まれている。碑石の高さは約2.3 m、基礎の高さは約4.8 m。基礎外郭一辺約7.7 mの方形。 もとの題字忠魂碑」は竣功当時第七師団長・国司伍七中将揮毫した書であったが、終戦後に「平和祈念碑」に改められる。現在も残るこの字は元屯田兵河原造・相内村第3村長よるものかつては日露戦役戦死者9名(元屯田兵7名、その他2名)と他1名の姓名勲等を、碑の左側刻んでいた。 河原鶴造翁立像 相内神社向かって左手、平和祈念碑右手位置し参道の方を向いて建っている。中野五一作、銘板の書は旧相内村4代村長作田政次よる。河原造は旧相内村第3村長で、相内村発展多大な功績残した明治10年1877年1月10日鳥取県東伯郡長瀬村(現・湯梨浜町大字水下生まれ。同31年1898年9月屯田兵として入植、同36年1903年屯田兵現役解除時には歩兵軍曹日露戦争時北韓軍に属して有り勲七等青色桐葉章受章その後北海道庁林務勤務帝室林野管理局技手をへて大正4年1915年)に相内帰村呉服太物商営み昭和8年1933年)より同20年まで村長務めた屯田兵練兵場跡地 相内公園全てかつては屯田兵練兵場で、その中央現在の相内神社社殿位置する神社背後、すなわち公園の北半分大部分芝生一部分が土の地面ゲートボール場として使用されている。「屯田兵」は北海道遺産になっており、北海道設置した案内板が同公園北東隅に存在するヤチダモ 開拓当時名残を残す原生木で、胸高直径104cm、樹高21mに達する。相内屯田56名が開拓シンボルとして保存を図るべきと運動した結果昭和54年197912月1日北見市保存樹木第1号指定される相内神社 開拓記念碑 平和祈念碑 河原鶴造翁立像 ヤチダモ 遊具

※この「公園内の施設等」の解説は、「相内公園」の解説の一部です。
「公園内の施設等」を含む「相内公園」の記事については、「相内公園」の概要を参照ください。

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