公園内の施設等
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相内神社 大正11年(1922)創建、現在地への遷座は昭和27年(1952)。祭神は天照大神と豊受大神。例祭日9月23日。相内公園は相内神社の境内地を囲繞する形になっている。 開拓記念碑(拓荒殖産碑) 公園の南東部、相内神社社殿の向かって右手にある。大正15年(1926年)9月25日起工、11月22日竣功、12月1日除幕式を執り行った。総工費は5,200円。 碑石は陸前国稲井(現在の宮城県石巻市)の産石で高さ約4.8 m、幅約2 m、厚さ約30 cm、重量7,800 kg。下部の礎石は十勝産の花崗岩で、高さは約2.3 m、幅は約7.9 m。地上からの高さ約7 m。創建時はさらにその下に、玉石56.2 m2、コンクリート231 m2を敷き詰めていた。碑文の題と撰は当時の北海道帝国大学総長・佐藤昌介の手になり、三浦翠山が揮毫。碑面の背後には相内村の開基者である屯田兵の戸主199名、他1名の氏名があり、これは小川多聞の書である。 平和祈念碑(旧忠魂碑) 公園の南西部、相内神社社殿に向かって左手、南面して国道の方を向き、神社の参道をはさんで開拓記念碑とほぼ同一線上に所在。屯田区有財産、及び相内村有志の浄財によって大正13年(1924年)10月16日竣功。除幕式と招魂祭を行った。それ以降、毎年9月15日に招魂祭を行っていた。上部の「碑」の部分は十勝産花崗岩の自然石、下部の台石は同じく花崗岩の切石。最下部の礎石は留辺蘂産の軟石。側面(神社側)には建立に携わった人々の名前が刻まれている。碑石の高さは約2.3 m、基礎の高さは約4.8 m。基礎の外郭は一辺約7.7 mの方形。 もとの題字「忠魂碑」は竣功当時の第七師団長・国司伍七中将が揮毫した書であったが、終戦後に「平和祈念碑」に改められる。現在も残るこの字は元屯田兵の河原鶴造・相内村第3代村長によるもの。かつては日露戦役の戦死者9名(元屯田兵7名、その他2名)と他1名の姓名や勲等を、碑の左側に刻んでいた。 河原鶴造翁立像 相内神社に向かって左手、平和祈念碑の右手に位置し、参道の方を向いて建っている。中野五一作、銘板の書は旧相内村第4代村長・作田政次による。河原鶴造は旧相内村第3代村長で、相内村の発展に多大な功績を残した。明治10年(1877年)1月10日、鳥取県東伯郡長瀬村(現・湯梨浜町)大字水下村の生まれ。同31年(1898年)9月屯田兵として入植、同36年(1903年)屯田兵の現役解除時には歩兵軍曹。日露戦争時は北韓軍に属して功有り、勲七等青色桐葉章を受章。その後、北海道庁林務課勤務、帝室林野管理局技手をへて大正4年(1915年)に相内へ帰村。呉服太物商を営み、昭和8年(1933年)より同20年まで村長を務めた。 屯田兵練兵場跡地 相内公園は全てかつては屯田兵の練兵場で、その中央に現在の相内神社の社殿が位置する。神社の背後、すなわち公園の北半分は大部分が芝生、一部分が土の地面でゲートボール場として使用されている。「屯田兵村」は北海道遺産になっており、北海道の設置した案内板が同公園の北東隅に存在する。 ヤチダモ 開拓当時の名残を残す原生木で、胸高直径104cm、樹高21mに達する。相内屯田会56名が開拓のシンボルとして保存を図るべきと運動した結果、昭和54年(1979)12月1日、北見市の保存樹木第1号に指定される。 相内神社 開拓記念碑 平和祈念碑 河原鶴造翁立像 ヤチダモ 遊具
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