備前長船兼光一覧
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/12/29 07:12 UTC 版)
備前長船住兼光 文永年間(1264年-1275年)頃の人。岡崎五郎入道正宗の正宗十哲とされる。大業物20工の一。鉄砲切り、石切り、甲割り等の名作が多く、重要文化財指定の作刀がある。大兼光。。通称「孫左衛門」。正宗の門人である点は年代的にみて疑問視する説もある。 備前国長船兼光 延文年間(1356年-1361年)頃南北朝時代の人。長船景光の子。左衛門尉。延文兼光と称される。最上大業物14工の一。重要文化財の作刀がある。作風に幅があることから、この兼光には初代・二代があるとする説が古来唱えられていたが、現在では、同一刀工の作風の変化であって、一代限りとする説が有力とされる。元亨から応安にかけての年紀作があり、時代柄大太刀や寸延短刀など豪壮な作例が多く、初期には景光の作風に近く直刃や片落ち互の目など地味なものが多いが、次第にのたれに互の目がまじった華やかな刃文を焼くようになる。また、地鉄に「牡丹映り」と呼ばれる独特の映りが現れるものが多い。刀身に彫刻を施したものも多く見られる。上杉家には戦前まで3振りの生ぶ茎(うぶなかご)で延文年間の大太刀が伝わっていたが、うち1振り(延文2年8月、重要美術品)は戦後アメリカ軍に接収されたまま行方不明で、現在確認できるものは2振り(いずれも重要文化財)となっている。斬れ味に優れており「波遊ぎ兼光」や「鉋切り兼光」等の異名を持つ作刀も多い。室町幕府初代将軍足利尊氏の御用鍛冶だったとする説は室町時代から見え、能阿弥の『能阿弥本銘尽』(現存最古の写本は文明15年(1483年)成立)によれば、尊氏は京都へ上洛する途上、兼光を取り立て、屋敷を与えたという。さらに近世以降登場した伝説では、建武の乱で九州落ちする尊氏を支援するため兼光が名刀を献上したとか(『備陽国志』)、兼光が尊氏に献上した刀は甲冑をも両断する名刀「兜割り」であった(『備前軍記』)などと物語られる。 備州長船兼光。応永年間(1394年-1428年)頃の人。三代兼光。重要美術刀の作刀がある。 備前長船兼光 長禄年間(1457年-1461年)頃の人。重要刀の作刀がある。 備前長船兼光 天文年間(1532年-1555年)頃の人。重要刀の作刀がある。 通常、兼光という場合、前二者、特に最上大業物14工の兼光を指すことが多い。
※この「備前長船兼光一覧」の解説は、「備前長船兼光」の解説の一部です。
「備前長船兼光一覧」を含む「備前長船兼光」の記事については、「備前長船兼光」の概要を参照ください。
- 備前長船兼光一覧のページへのリンク