他の漁法との摩擦
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/03/06 23:39 UTC 版)
「帆打瀬」の漁法では、上手回し(タッキング)などの操船の工夫、舵の大型化やズンド水押などの船型の進化、船体の大型化、西洋帆船の縦帆(ガフセイルなど)の導入によって、横風・向風での帆走能力を大きく向上させ、操業できる海域の拡大と漁獲効率の大幅な向上をもたらした。このことは、漁船に動力機関(エンジン)が普及していない明治期では、従来からある蛸壺、延縄、巻網(揚繰網)や地曳網などの漁種にとって大きな脅威となった。そのため、愛知県では、明治3年から操業の排撃などの紛争が起き始め、明治25年には反対漁民による地方行政機関への乱入、警官隊との衝突といった「三州打瀬網騒動」の事件が起きた。当時、曳網が海底環境に影響し餌となる虫類・貝類が減少する、他漁法の漁具を傷め妨害している、乱獲によって水産資源と漁獲が減少しているなどの理由で、国・県に対して打瀬網漁の規制が強硬に求められ、これ対して、打瀬網漁民も陳情活動を展開して対抗したが、最終的には打瀬網の禁止を決定・実施した県もあった。 具体的には、明治15年に、和歌山県が県令により地先での打瀬網の操業を禁止した。続いて同19年3月に、愛知県、三重県、静岡県の3県が協議の上、「打瀬網と類似漁法を猶予期間3年で禁止」を布告し、これに対し打瀬網漁民は県庁や大臣へ陳情して対抗した。反対運動や陳情を受けて、明治24年、愛知県は、県令で「当分の間の延長」を決め、事実上禁止令を解除し、実施していない。一方、三重県は打瀬網禁止令を実行し、明治25年には福岡県と大分県と並んで、ほぼ全面禁止の状況にあった。このため、三重県の打瀬網漁民の中には、愛知県で登録し三重県沿岸で操業する者も現れた。 また、瀬戸内海沿岸では、明治10年代後半から20年代にかけて、福岡県、広島県、愛媛県(当時香川県を含み、明治21年に香川県が分離した。)、徳島県、山口県から打瀬禁止制限令が出されていた。しかし、広島県は、明治19年に打瀬網漁の禁止制限令を公布したが施行は見送り、そのまま延期して実施しなかった。
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他の漁法との摩擦
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/03/03 09:50 UTC 版)
大型の袋網を一つだけ引く一条網の「帆打瀬」の漁法では、複数の風帆を船体に対し平行に張り、船を風下へ横滑りさせながら網を引く。詳しくは、二本の引綱を船首と船尾に振り分け、できるだけ離すことによって、海中の袖網と網口を横方向に広げつつ、人力に依らずに海底に入れた大型の袋網を引くことができ、大変効率的であった。これに加え、船形の改良や縦帆の導入等によって逆風帆走の性能が向上し、漁場として利用できる海域が大きく広がり、明治期においては、その高い漁獲力は画期的と言っても過言ではなかった。これが災いして、他の漁法との激しい諍いが絶えず、愛知県では、明治3年から操業の排撃などの紛争が起き、明治25年には反対漁民による地方行政機関への乱入、警官隊との衝突といった「三州打瀬網騒動」の事件が起きた。このため、この漁法の禁止を決めた県もあったほどである。例えば、明治19年3月に、愛知県、三重県、静岡県の3県が協議の上で打瀬網漁の禁止令を布告している。しかし、愛知県では「3年の猶予期間」が「当分の間」に延長され、最終的には禁止は行われてはいない。
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