他の正教会との関係
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「マケドニア正教会」の記事における「他の正教会との関係」の解説
ユーゴスラヴィアが分裂し、共産主義政権が崩壊したことにより、セルビア正教会とマケドニア正教会の間に新たな問題が生じた。その内容は、マケドニア正教会が自治を獲得する過程に関する問題点、および新たに独立したマケドニア共和国において少数派となったセルビア正教会の信者に関する問題、中世ネマニッチ(Nemanjić)時代におけるセルビア正教会の聖堂に関する問題である。 2つの正教会は2002年、セルビアのニシュにて妥協を図るための交渉を行い、マケドニア人を教会法が定めるところによる事実上の(de facto)独立した存在であると位置づけた。合意はマケドニア正教会の3人の主教(オーストラリア府主教ペタル(Petar)、デバル(Debar)およびキチェヴォ(Kičevo)府主教ティモテイ(Timotej)、ストルミツァ(Strumica)府主教ナウム(Naum))によって承認された。しかしこの背景には政治的圧力があったとして、後にこれらの主教たちは再びこの合意を撤回、マケドニア側の主教では唯一オフリド大主教ヨヴァン(Jovan)のみがこの合意を認める立場におかれた。その後、突如としてマケドニア共和国政府およびマケドニア正教会の首座によって合意は破棄された。それに対してセルビア正教会は正統オフリド大主教区を設置し、自治権を付与、ヨヴァンを大主教に任命した。正統オフリド大主教区はマケドニア共和国の中で孤立した立場に置かれている。 これら一連の出来事はセルビア正教会とセルビア共和国政府、そしてマケドニア正教会とマケドニア共和国政府を巻き込み、相互に非難合戦を繰り広げる事態を招いた。マケドニア側は正統オフリド大主教区のヨヴァンをセルビア側の手先と決め付け、ヨヴァンはマケドニアのメディアによる彼の教会に対する非難キャンペーンに対する不満を口にした。ヨヴァンは「彼らは不安定で爆発性のある輪を人々の間に作り出し、人々をわれわれに対する仮想的なリンチへと向かわせている。」とForum 18 News Service に語った。 マケドニア政府はヨヴァンの教会の承認を拒否、その信仰の場を攻撃、ヨヴァンを犯罪者として告発した。ヨヴァンは逮捕され、主教の地位を剥奪され、国外追放された。2005年にヨヴァンは帰国、洗礼を試み、再び逮捕された。ヨヴァンは18か月の懲役を言い渡され、収監され、彼にたいする訪問は厳しく制限された。2006年3月19日、220日を刑務所で過ごした後、ヨヴァンは釈放された。このヨヴァンに対する逮捕の理由は金銭の横領であり、教会資金の不適当な使用、およびマケドニア正教会に所属していた当時の教会資金の着服というものであった。 他方、セルビア正教会はマケドニア側によるプロホル・プチニスキ(Prohor Pčinjski)修道院への出入りを禁止した。この場所はマケドニアの国民の祭日イリンデン(Ilinden、8月2日の聖エリヤの日)を祝福する場所であり、またマケドニア人民解放反ファシスト会議(ASNOM)が初めて開かれた場所であった。マケドニアの入国管理局は聖職者の服装をしたセルビア側の聖職者を頻繁に入国拒否している。 両教会による「キリスト教の朋友関係と統一」に対する呼びかけにも関わらず、現実にはこの問題を解決する動きはほとんどなされていない。
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他の正教会との関係
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「ルーマニア正教会」の記事における「他の正教会との関係」の解説
ルーマニア正教会を含め、ほとんどの正教会の独立教会は、全地総主教たるコンスタンディヌーポリ総主教を尊重し、精神的な絆を保っている。 2008年11月、日本正教会といかなる根回しも行わずに日本に二つの小教区を有する「日本支部」を設置、2名の司祭を常駐させ、紛争となっている。
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