二代目市川團十郎が名の由来という通説について
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「団十郎朝顔」の記事における「二代目市川團十郎が名の由来という通説について」の解説
「二代目市川團十郎が、歌舞伎十八番の内「暫」で用いた衣装の色が海老茶色であったことにちなんでつけられた」と言う通説の典拠は米田による「江戸時代に二代目市川団十郎が『暫(しばらく)』の衣裳に柿色の素襖(すおう)を用いて一躍人気を博し、この色が団十郎茶として流行した。」という記述である。これは団十郎朝顔の研究として先行する渡辺の記述「名優市川団十郎の名にちなんだ花名である。『暫(しばらく)』の狂言に柿色の素袍(すおう)を用いたが、団十郎の人気に乗じ、この色が流行したといわれている」という記述を引用して肉付けしたものである。しかし「団十郎茶」という色の由来として二代目市川團十郎を挙げる文献は無い。単に市川家の狂言に用いる色、市川家代々が狂言に用いた色、もしくは五代目市川團十郎に由来するとする文献が多い。二代目市川團十郎は「暫」での初代市川團十郎以来の野郎頭に鎌髭の赤塗り、小具足、小手、素足に脛当、大太刀に三升の角鍔、荢縄の鉢巻という扮装を改め、角鬘に力紙、柿色の素袍、大太刀、筋隈の扮装を考案した。しかしそれをもって世間一般で「団十郎茶」が流行した。とする記述をする文献は存在しない。また五代目市川團十郎の人気で団十郎茶が流行したという一次資料も確認できない。八代目市川團十郎と同時代に生きた大槻如電は、「団十郎茶」について以下のように記述している。 サテ弘化から嘉永へかけまして、世の中で流行ました衣物は、海老茶と申す色です。これは八代目團十郞が、或る狂言の世話女房に、例のコクモチの着付で、舞臺へ出ました時に市川家の柿色へ、濃めの黑味を帶びさせた色でありました。ナニガさて、當時江戸八百八町の贔負を、一人で背負って居ました八代目の事ですから、此色が大流行で、十五六から三十前ぐらゐな婦人、海老茶の紋付を着ない者は無いのです。大概太織紬(ふとをりつむぎ)などを染めまして、不斷着にしました。紋所は銘々の紋で、市中の女は、どこもかしこも、紋付の衣物ならざるは、ないといふ有樣でした。この茶の色を八代目茶とも、團十郞茶とも申しました。この時は、何んでもかんでも八代目八代目で持ち切て居ました。この如電入道も、はづかしながら、子供の時分、三升小紋の上下を着せられた事がありました。八つ九つの頃でした。 — 大槻如電、江戸の風俗衣服のうつりかはり(第七談) 八代目市川團十郎の人気に乗じて「海老茶」が流行し、これを「団十郎茶」とも呼んだとしている。これらはあくまで「団十郎茶」という「色」が流行したという事を示しているにすぎず、通説ではこれを「団十郎茶」の「朝顔」が流行したと誤って解釈している。二代目市川團十郎の活躍した時代は文化文政期第一次朝顔ブーム以前であり、単純な変化朝顔が出始めた時代である。柿色の朝顔も当時の文献には現れない。海老茶または団十郎茶が流行したという八代目市川團十郎の活躍した弘化から嘉永に掛けて「団十郎」という朝顔があったと記述する文献も無い。#明治時代の団十郎朝顔の特徴で述べたように、明治時代の団十郎朝顔を扱った文献では九代目市川團十郎に由来するとする。 また、団十郎朝顔の色として「海老茶色」と表現する文献は東京都農林総合研究センターの記述以前には無く、柿色のほか茶・焦茶・柿茶・栗皮茶と呼ばれていた。明治期の団十郎朝顔の花色の表現としては「柿色」と表現していることが多い。「暫」で用いる素袍の色は江戸時代から柿色と表現されており、団十郎朝顔に関する通説以外で「暫」で用いる素袍の色を「海老茶色」と記述することは無い。 市川流暫の素袍に定紋三升を付る事、此素袍は顔見せ三十日の興業に素袍ののり落ちるゆへ、柿の素袍二張ツヽ用ゆる。 — 三升屋二三治、三升屋二三治戯場書留 黄蝉葉「団十郎」の色は、東京都農林総合研究センターの記述以前は濃茶もしくは濃栗皮茶と表現されている。
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