二代目市川團十郎が名の由来という通説についてとは? わかりやすく解説

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二代目市川團十郎が名の由来という通説について

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/02/18 07:15 UTC 版)

団十郎朝顔」の記事における「二代目市川團十郎が名の由来という通説について」の解説

二代目市川團十郎が、歌舞伎十八番の内「暫」で用いた衣装の色が海老茶であったことにちなんつけられた」と言う通説典拠米田による「江戸時代二代目市川団十郎が『暫(しばらく)』の衣裳柿色素襖(すおう)を用いて一躍人気博し、この色が団十郎茶として流行した。」という記述である。これは団十郎朝顔研究として先行する渡辺記述名優市川団十郎の名にちなんだ花名である。『暫(しばらく)』の狂言柿色素袍(すおう)を用いたが、団十郎人気乗じ、この色が流行したといわれている」という記述引用して肉付けしたものである。しかし「団十郎茶」という色の由来として二代目市川團十郎挙げる文献は無い。単に市川家狂言用いる色、市川家代々狂言用いた色、もしくは五代目市川團十郎由来するとする文献が多い。二代目市川團十郎は「暫」での初代市川團十郎以来野郎頭鎌髭赤塗り小具足小手素足脛当大太刀三升角鍔、荢縄の鉢巻という扮装改め、角鬘に力紙柿色素袍大太刀筋隈扮装考案した。しかしそれをもって世間一般で「団十郎茶」が流行した。とする記述をする文献存在しない。また五代目市川團十郎人気団十郎茶流行したという一次資料確認できない八代目市川團十郎同時代生きた大槻如電は、「団十郎茶」について以下のように記述している。 サテ弘化から嘉永へかけまして、世の中流行ました衣物は、海老茶と申す色です。これは八代目團十郞が、或る狂言世話女房に、例のコクモチ着付で、舞臺へ出ました時に市川家柿色へ、濃めの黑味帶びさせた色でありましたナニガさて、當時江戸八百八町贔負を、一人背負って居ました八代目の事ですから、此色が大流行で、十五六から三十前ぐらゐな婦人海老茶紋付着ない者は無いのです。大概太織紬(ふとをりつむぎ)などを染めまして、不斷着しました紋所銘々の紋で、市中の女は、どこもかしこも紋付の衣物ならざるは、ないといふ有樣でした。このの色を八代目とも、團十郞茶とも申しました。この時は、何んでもかんでも八代目八代目持ち切て居ました。この如電入道も、はづかしながら、子供時分三升小紋の上下を着せられた事がありました八つ九つの頃でした。 — 大槻如電江戸風俗衣服のうつりかはり(第七談) 八代目市川團十郎人気乗じて海老茶」が流行し、これを「団十郎茶」とも呼んだとしている。これらはあくまで「団十郎茶」という「色」が流行したという事示しているにすぎず、通説ではこれを「団十郎茶」の「朝顔」が流行した誤って解釈している。二代目市川團十郎活躍した時代文化文政期第一次朝顔ブーム以前であり、単純な変化朝顔出始め時代である。柿色朝顔当時文献には現れない。海老茶または団十郎茶流行したという八代目市川團十郎活躍した弘化から嘉永掛けて団十郎」という朝顔があったと記述する文献も無い。#明治時代の団十郎朝顔の特徴述べたように、明治時代団十郎朝顔扱った文献では九代目市川團十郎由来するとする。 また、団十郎朝顔の色として「海老茶色」と表現する文献東京都農林総合研究センター記述以前には無く柿色のほか焦茶柿茶栗皮茶呼ばれていた。明治期団十郎朝顔花色表現としては「柿色」と表現していることが多い。「暫」で用い素袍の色は江戸時代から柿色表現されており、団十郎朝顔に関する通説以外で「暫」で用い素袍の色を「海老茶色」と記述することは無い。 市川流暫の素袍定紋三升を付る事、此素袍顔見せ三十日興業素袍ののり落ちるゆへ、素袍二張ツヽ用ゆる。 — 三升二三治、三升屋二三治戯場書留団十郎」の色は、東京都農林総合研究センター記述以前濃茶もしくは栗皮茶表現されている。

※この「二代目市川團十郎が名の由来という通説について」の解説は、「団十郎朝顔」の解説の一部です。
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二代目恵迪寮太平洋戦争が近づくにつれて大学当局は寮自治への介入を強めていった。1940年には、寮運営のシステムが寮生の選挙による執行委員会制から大学の任命による幹事会制に変更された。さらに物資不足などの影響もあり、自治の象徴であった自炊制度、購買組合までも廃止されてしまった。寮自治は一時崩壊を迎えていく局面を迎える。寮はいわば戦争のための修練の場となり、朝礼や体操などの実行が強化され、寮生は空腹と束縛に苦しめられた。だがこんな時代の中でも、寮生たちは「いくら外面的に規定しても、内面的に我々の生活を規定できるものではない」という気持ちを持ち続けていた。その後終戦を迎え1946年には新委員会が発足し、寮自治は再建され始めた。しかし、この頃の自治会会が対処しなければならなかったのは、対大学当局的な問題ではなく、深刻な食糧難だった。執行委員は勉学を犠牲にして寮生の食料確保に努め、無断で北大の農場に入り芋などを盗んでいた。そんな辛い時代の中でも、「上級生は下級生よりも余計に食わない。もし食ったものがいたら軽蔑された」という礼儀は続けていた。その後の安保闘争、学生運動の時代を経て、1970年ごろになると寮の老朽化が深刻になり、建て替え問題が本格的になった。当時の寮生たちは、4人部屋での共同生活を通して寮生間の幅広い交流を行い、濃密な人間関係を形成していた。しかし学生運動の影響もあり、文部省は学生の共同生活は社会の危険因子を産むと考え、完全個室で食堂のない寮でないと新しく建ててはならないと決めてしまった。そして大学側もそれに従って新しい寮を建てる意向であった。寮生は反対するが、新たな寮の建設は決定した。使命を終えた旧建物は、その一部が北海道開拓の村に移築復元され、「旧札幌農学校寄宿舎」として保存されている。三代目恵迪寮

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