舞台へ
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「大川橋蔵 (2代目)」の記事における「舞台へ」の解説
1956年2月東横ホールを最後に映画界へ入って以来の舞台へ。1962年8月より東映歌舞伎が明治座で公演。7月に準備のために東京へ向かい養母と一緒に養父・六代目尾上菊五郎の墓前へ東映歌舞伎出演の報告をした。 歌舞伎出身の橋蔵は主力メンバーとして出演。他に市川右太衛門・片岡千恵蔵・大友柳太朗・東千代之介らがいる。 銀幕スターが生で見られるとあって明治座始まって以来の客入りで、明治座の扉が閉まらなかった。橋蔵は昼の部の「濡れつばめ」(川口松太郎作・演出)三幕を皮切りに夜の部「いれずみ判官」三幕五場、「花の折鶴笠」四幕十場に出演。とくに「花の折鶴笠」は好評で半年後に映画化、映画より舞台が先に発表された珍しい例と言える。翌年の第二回公演以降は橋蔵が座長と言ってもよいほど舞台の中心に位置するようになる。東映歌舞伎の舞台出演は橋蔵の舞台への郷愁を呼び覚まし、その後歌舞伎座の橋蔵公演へとつながって行く。 1967年12月から大川橋蔵特別公演で11年ぶりに歌舞伎座の舞台に復帰。初日は13代目仁左衛門、17代目羽左衛門、3代目左團次(当時男女蔵)などが歌舞伎から多数出演した。橋蔵は舞台パンフレットに初日の事について「第一回初日を終えて一人化粧前に座ったとき、感激であふれる涙をどうする事も出来なかった」と語っている。1968年12月の歌舞伎座での『鏡獅子』では場内割れんばかりの拍手の嵐となり、かつて菊五郎劇団の女形・舞踊の上手さで頭角を表していたが門閥の壁ゆえ果たせなかった夢を映画で成功させ、一枚看板で歌舞伎座を超満員にした。演劇書を多数出版した戸板康二は朝日新聞に「どんな時でも橋蔵は本格の歌舞伎舞踊を必ず演じてきた〜中略〜映画・テレビの世界に入っても歌舞伎から巣立った事、六代目によって芸道の初歩を与えられたことを決して忘れまいとしている。今日の『鏡獅子』はかつて菊五郎劇団の女形だった時の舞台感覚を少しも失っていない初々しい色気を持っていた。」とコメントしている。
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