九州共同火力発電による運営
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「港発電所」の記事における「九州共同火力発電による運営」の解説
出力1万4000キロワットの港発電所を新設した三井鉱山は、東洋高圧工業(現・三井化学)の工場建設などの三井系の電力需要増加に対処するため、1933年(昭和8年)5月に港発電所の3万キロワット増設計画を逓信省へ申請した。ところがこの申請は、熊本逓信局が三井鉱山単独での発電所増設を認めない方針を採ったため計画変更を余儀なくされ、電力購入先であった熊本電気との共同による4万キロワット増設計画に改めた。しかしこの変更も、熊本電気以外の電気事業者に余剰電力が存在するとの理由で当局の容認するところにはならなかった。結局、逓信省の示唆に従い九州の大手電力会社東邦電力・九州水力電気を含む電力会社連合と三井鉱山による共同火力発電所へ改めることとなった。 1935年(昭和10年)1月21日、受け皿となる新会社「九州共同火力発電株式会社」の電気事業経営許可が下り、同30日に創立総会が開催され新会社が発足した。資本金は1500万円(1936年6月より3000万円)で、持株比率順に三井鉱山・熊本電気・九州電力・九州水力電気・九州送電・東邦電力の6社が出資。会長に三井鉱山の尾形次郎が就任している。同年5月1日、九州共同火力発電は三井鉱山から港発電所を譲り受けて開業し、同社と東洋高圧工業に対して電力供給を開始した。 九州共同火力発電移管直後から港発電所では増設工事が相次いで竣工する。まず1935年5月中に3号発電機(出力7000キロワット)の増設が完了。同年12月29日4号機(出力2万2000キロワット、以下同じ)が竣工し、翌1936年(昭和11年)には2月17日5号機、10月22日6号機、11月30日7号機が相次いで完成して発電所の設備出力は10万9000キロワットに達した。逓信省の資料によると、1937年12月末時点での発電所認可出力は常時8万キロワット・所内用7000キロワットで、九州共同火力発電では九州電力からの受電5600キロワットを加えた電力を、東邦電力(1万3000キロワット)・九州水力電気(同)・熊本電気(3000キロワット)・三井鉱山三池鉱業所(3万2600キロワット)・東洋高圧工業(2万4000キロワット)の5社へと供給していた。 1939年(昭和14年)4月、国策会社日本発送電が発足し電力の国家管理が始まった。この際、出力1万キロワット以上の火力発電所は日本発送電へ帰属すると定められたが、港発電所は三井系の自家用発電所という役割が強いことからこの対象とはならず、会社が日本発送電と三井鉱山との折半出資に変わるのみに留まった。会社は同年5月1日、九州共同火力発電から「九州火力発電株式会社」へと社名を変更。引き続き港発電所の拡張に取り組み、1940年(昭和15年)6月に8号発電機(出力2万5000キロワット)、翌1941年(昭和16年)2月に9号機(出力7000キロワット)を完成させ、発電所の認可出力を11万6000キロワットへ増強している。 太平洋戦争末期の1945年(昭和20年)4月20日、軍需大臣より日本発送電に対し軍需会社法に基づく九州火力発電の合併命令が下りた。これに従い日本発送電は三井鉱山の持ち株をすべて買収した上で同年6月16日付で九州火力発電を合併した。合併時、同社の資本金は6000万円(うち2250万円払込)であった。
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