主題詩
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「お母さん、ぼくが生まれてごめんなさい」の記事における「主題詩」の解説
この詩の作者である山田 康文(やまだ やすふみ、1960年〈昭和35年〉6月2日 - 1975年〈昭和50年〉6月11日)は、重度の脳性麻痺を患う障害児であり、1968年(昭和43年)に明日香養護学校に入学し、向野幾世の受け持ちの生徒となった。知能は正常であったものの、発声や手足の動作も不自由で、学校内で最も重い障害の持ち主であったが、向野が1972年(昭和47年)に同校の言語訓練の担当となったことで多くの言葉を表現し、それらが日記のように書きためられていた。後に奈良で障害者施設の建設が進められ、その資金集めのため、同校の障害児の作った詩にアマチュア音楽グループ「奈良フォーク村」が曲をつけて歌うイベント「わたぼうしコンサート」の開催が決定した。康文もこれに参加し、書きためたノートに内容をもとに作り上げた詩が、本書の主題となる詩である。 詩の製作にあたっては、向野がいくつもの文章を提示し、康文はそれが自分の意図する表現に合っているかどうかを目や舌のみの仕草で示すという、地道な方法がとられた。一例として、詩は「ごめんなさいね おかあさん」の書き出しで始まるが、この一言をとっても、「ごめんね」「ごめんなさい」など、意味は同じでも表現の異なる無数の言葉から、康文の想いに最も適した「ごめんなさいね」を選び出すだけで、約1か月を要していた。 詩の内容は、自分の母に宛てたものであった。康文は母の助力で通学しており、母の体力や家業に大変な負担をかけていた。また当時、1960年代から1970年代にかけての日本は未だ障害者差別が著しく、周囲からの奇異の視線や心ない言葉を投げかけられ、母が悲しむことも多かった。そうしたことで苦労をかけている母に対し、自分が障害者として生まれたことを詫びる内容の詩であった。これに心を打たれた母親は返詩として、自分が息子を障害者として生んだことを詫びるとともに、息子を希望として今後も生きてゆくことを詩に書いた。康文はさらに返詩として、母への感謝、障害を受け入れて生きていくことを書き、詩が完成した。 1975年(昭和50年)、第1回「わたぼうしコンサート」が開催。しかし康文の詩に対しては、フォーク村の一同が「訴えるものが強すぎて、とても曲が付けられない」「へたに曲をつけると詩の命が死んでしまう」「胸が詰まって歌えない」と言い合ったことから、曲がつけられることはなく、向野による朗読として発表された。 この「わたぼうしコンサート」に、テイチクエンタテインメントの当時の社長である南口重治が来場していたことから、同コンサートが全国でも初めての福祉レコードとなることが決定した。しかし康文はその完成を待つことなく、15歳の誕生日を迎えた直後の同1975年6月、不慮の事故により死去した。
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