中止の経緯
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しかしバブル崩壊によりオフィス需要拡大の思惑が外れ、徐々に賃料が上昇する新土地利用方式の評判も悪かったことから、1992年(平成4年)ごろから進出内定企業の契約辞退が相次ぐことになる。このような背景のもと青島幸男が1995年(平成7年)4月9日の東京都知事選挙に立候補し、世界都市博の中止、臨海副都心開発の見直し、乱脈経営で経営危機(二信組事件)となっていた東京協和・安全信用組合の非救済を公約にした。青島は約170万票を獲得し、鈴木知事の後継で都市博開催を公約にした石原信雄(約123万5千票)に大差で勝利した。都市博を中止せよという世論が青島の大量票獲得に貢献したといえる。 都市博中止を公約にした青島は、知事に当選してから初めて博覧会場を訪れ、かなり準備が進んでいることに驚いた。中止した場合、約1000億円の損失が出ると事務局側は青島都知事へ伝えていた。開催を行うかどうかの決断は1995年5月31日までにしなければならなくなり、タイムリミットは迫っていた。 そうした中、中小企業などの利益のためにも予定通りの開催を訴える保守系議員が多数派を占めていた東京都議会の「世界都市博開催に関する特別委員会」が、5月16日に「都市博開催決議」を可決した。同じ日、青島知事宛ての小包が爆発する東京都庁小包爆弾事件が起きた(ただし爆弾事件はオウム真理教によるものであり、都市博問題とは無関係と後に判明している)。続いて5月23日、都議会本会議において100対23の大差で「都市博開催決議」が可決された。 こうした情勢の中で公約は貫徹されないという観測が広まっていたが、実際に青島が公約を履行するか否か、全国の注目が集まった。タイムリミットの5月31日、青島は都市博の中止を発表した。公約実行は困難だと見ていた人々は、「まさか」「なんとガンコな」「公約は公約でも本当に中止するとは信じられない」と衝撃を受けた。青島は都市博の中止を、家族や知人と相談して決断したという。中止を受けて国内外都市におよそ8億円の損害保証金が支払われた。 この決定を受けた鈴木前知事は「首都圏での博覧会開催」という夢を潰されたことに怒りをあらわにして「サリンをばら撒かれたようだ」と発言し、地下鉄サリン事件からまだ日も浅い中でのこのような発言は各方面から非難を浴びた。
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