両畠山家の和睦・上洛
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永正元年(1504年)になると、朝経と摂津守護代の薬師寺元一が反乱を起こすなど、政元政権における内部対立が表面化する。尚順はこの動きを利用し、総州家の義英を義尹陣営に抱き込み、12月18日に和睦を結ぶことによって政元に対抗しようとするも、永正3年(1506年)に政元と和睦した朝経に誉田城と高屋城を攻略され義英と共に没落した。 越中においては、神保長誠の没後不安定となっていた領国支配を、分家である能登畠山家と越後守護代の長尾能景と結ぶことにより加賀一向一揆に対抗しようとするも、長誠の子である神保慶宗の離反が起きて能景は戦死し(般若野の戦い)、ここでもその対策に追われる。 永正4年(1507年)6月、政元が暗殺され、朝経も丹後で戦死すると(永正の錯乱)、9月に政元の養子細川澄元の配下赤沢長経(朝経の養子)が行った大和遠征に抵抗したが、12月4日には義英との同盟が決裂し、澄元と和睦、澄元の同族細川高国・細川尚春及び赤沢長経の援軍と大和国人衆の合流を得て、翌永正5年(1508年)1月に義英が籠もる嶽山城を落とした。 だが、尚順のこれ以上の勢力伸長を危惧する長経は義英を嶽山城から逃し、尚順の義弟(妻の弟)にあたる高国を澄元に讒言、これにより高国は澄元に疑われ出奔することになる。この澄元との和睦が義尹陣営からの離反に当たるかどうかだが、同時期の12月から1月にかけて義澄・澄元は義尹との和睦を模索しており、尚順の動きも義尹陣営としての動きだった可能性も考えられる。 直後に澄元と対立して義尹と結んだ高国と共に澄元及び義英と敵対、4月に義尹が周防守護大内義興に奉じられ上洛すると高国と共に堺で出迎え支持を表明した。そして、7月に大和から河内へ攻めた長経・古市澄胤など澄元方の有力者を破り、澄胤は戦死し、長経は生け捕りにされて京で処刑された。 8月11日、尚順が京都の宿所としていた東福寺海蔵院へ、将軍に復帰した義尹の御成が実施された。義尹が将軍復帰後初となる御成先を尚順としたのは、彼が明応の政変以来一貫した義尹の支持者であり、かつ澄元与党の赤沢氏を討伐したことを評価したものであるが、それは同時に尚順が義尹の将軍復帰の功労者であることを内外に表明する意味を持つことになる。だが、一方で自分が将軍復帰の最大の功労者と考えてきた大内義興の反感を買い、義興は尚順との不仲を理由に宴会の途中で退席をしてしまい、細川高国もこれに同調したため、義尹の意図した大名序列の形成は失敗した。 永正5年頃、尚順は出家し、卜山と名乗った。 永正8年(1511年)、澄元陣営の上洛戦では、河内の義英方との戦闘で紀伊守護代の遊佐順房(筑前守)が戦死するなど苦戦するも、船岡山合戦で義稙方が勝利したことによって再び優勢に立った。 かくして将軍に返り咲いた義尹の下で正式に守護職に任命された尚順であるが、管領は高国、山城の守護職は義興が任命され、政長時代の権力を完全に回復するまでは至らなかった。尚順は早い段階で京での活動が見られなくなり、嫡男の鶴寿丸(後の稙長)を在京させ、自身は河内などの領国に下向していたと思われる。 永正12年(1515年)、元服した稙長に正式に家督を譲り隠居、分国である越中と紀伊の統治に専念した。 永正10年(1513年)、義尹が出奔した際には上洛し、義興・高国・畠山義元との四人で相談を行い、義尹と交渉し迎え入れている。 これらの出来事については、「政争に負けて隠遁した」と上述の高国らとの対立軸で語られることもあるが、澄元陣営の巻き返しに対抗するためという指摘もある。堺から上洛を狙う澄元軍への対策として和泉・紀伊・河内の国境付近の防備を強化する必要があり、既に永正10年頃から尚順は大和出身の林堂山樹を起用しての領国整備を行っており、下向も義興を通じて義尹の許可を得た上で行っている。分国の安定を図るためには直接下向する必要性があったが、一方で義英への対抗上高国との結びつきも継続させる意図から、稙長を在京させて自分は領国支配に乗り出したとされる。
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