両畠山家の掌握
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2020/04/21 08:12 UTC 版)
このころ、河内守護畠山氏においては、総州家(畠山義就を祖とする)は木沢氏の傀儡となっていたが、一方の尾州家(畠山政長を祖とする)の勢力は健在であった。 天文3年当時、尾州家の主は畠山稙長であったが、晴元への対抗として本願寺と同盟したことが発覚すると、長政は尾州家重臣の遊佐長教らと結託して稙長を紀伊に追放した。当初は稙長の弟・畠山長経を傀儡として擁立したが、晴元の干渉もあって長経は廃され、もう1人の弟晴熙が家督代行として長教に擁立されたが、これは幕府からは認められなかった。 やがて長教と交渉を行い天文7年(1538年)に畠山弥九郎と畠山在氏をそれぞれ尾州家・総州家から擁立し、尾州家と総州家の共同統治という形式を採ることにより、長政は長教と共に畠山氏の実権を握ることになる。背景には一向一揆への脅威に対する備えとして両畠山氏の和睦を考えていた長政の意向があったとされる。 その後の長政の野心は、河内1国を支配下に治めただけにはとどまらず、その軍事行動は畿内の各国に及んだ。特に、かつての総州家の版図である大和への執着は強く、国人衆にとって脅威となった。この時河内と大和の双方に通じる拠点として信貴山城や二上山城を築城。天文6年(1537年)より筒井氏と結び、越智氏を圧して大和を掌握するようになる。また、大和国内で大きな権限と影響力を有していた興福寺や春日社などの寺社とも、幕府や細川晴元の被官という立場を介して関係性を深めていった。
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