両畠山氏の争いとそれ以後の二見氏
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「二見氏 (大和国)」の記事における「両畠山氏の争いとそれ以後の二見氏」の解説
15世紀半ばより畠山義就と政長の争いが激しくなると、宇智郡の武士たちも義就方と政長方に分かれ、二見氏は義就方となった。文明・長享の頃、義就・義豊父子は吉野天河郷付近へと逃れていたが、河内入国のため味方するよう、義豊が二見左京亮へと命じている。 永正から天文にかけては、義豊の子である義英とその子・在氏に二見松王(のちの左衛門大夫や遠江守か)が属している。木沢長政が勢力を伸ばし大和に進出すると、二見左衛門大夫はそれに従い従軍した。また長政は崎山氏や今井氏、別所氏、嶋野氏、松井氏に対し、左衛門大夫に属して従軍するよう命じている。天文20年(1551年)頃には、二見氏は在氏の子・尚誠に従っていた。 元亀元年(1570年)に大坂本願寺が織田信長に対し抗戦すると、反信長方の三好康長が宇智郡の牧野左兵衛尉・嶋野新介・二見治部・二見密蔵院に対し応援を求めている。この時、密蔵院が康長方として従軍した。密蔵院は高野山末寺の僧で、天正8年(1580年)、宇智郡坂合部城で高野山方として戦い、天正10年(1582年)、高野山に侵攻する織田軍と戦った。 豊臣秀吉による天正13年(1585年)の紀州攻めの後、宇智郡は秀吉の弟・秀長の支配下に置かれ、宇智郡の武士たちは牢人となるか帰農するかの選択を迫られた。僧であった密蔵院は後に徳川秀忠に召され1,000石を与えられるが、他の二見氏の一族らは帰農の道を選ぶ。 安永3年(1774年)、二見氏最後の当主・二見金蔵は60歳になろうという年で、養子も病死し跡を継ぐ者もいないことから、二見氏伝蔵の綸旨・院宣を桜井藤次へと譲り、その子孫に二見氏の家名を相続させるよう依頼している。しかしそれは叶えられることなく、二見氏はそのまま絶えることとなった。
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