両畠山氏の争いとそれ以後の二見氏とは? わかりやすく解説

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両畠山氏の争いとそれ以後の二見氏

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/14 02:53 UTC 版)

二見氏 (大和国)」の記事における「両畠山氏の争いとそれ以後の二見氏」の解説

15世紀半ばより畠山義就と政長の争い激しくなると、宇智郡武士たちも義就方と政長方分かれ二見氏は義就方となった文明長享の頃、義就・義豊父子吉野天河付近へと逃れていたが、河内入国のため味方するよう、義豊が二見左京亮へと命じている。 永正から天文にかけては、義豊の子である義英とその子・在氏に二見松王(のちの左衛門大夫遠江守か)が属している。木沢長政勢力伸ばし大和進出すると、二見左衛門大夫はそれに従い従軍した。また長政崎山氏や今井氏別所氏、嶋野氏、松井氏対し左衛門大夫属して従軍するよう命じている。天文20年1551年)頃には、二見氏は在氏の子・尚誠に従っていた。 元亀元年1570年)に大坂本願寺織田信長対し抗戦すると、反信長方の三好康長宇智郡牧野左兵衛尉・嶋野新介・二見治部二見密蔵院対し応援求めている。この時、密蔵院が康長方として従軍した密蔵院高野山末寺の僧で、天正8年1580年)、宇智郡坂合部城で高野山方として戦い天正10年1582年)、高野山侵攻する織田軍と戦った豊臣秀吉による天正13年1585年)の紀州攻めの後、宇智郡秀吉の弟・秀長の支配下置かれ宇智郡武士たちは牢人となるか帰農するかの選択迫られた。僧であった密蔵院は後に徳川秀忠召され1,000石を与えられるが、他の二見氏一族らは帰農の道を選ぶ。 安永3年1774年)、二見氏最後当主二見金蔵60歳になろうという年で、養子病死し跡を継ぐ者もいないことから、二見氏綸旨院宣桜井藤次へと譲りその子孫二見氏家名相続させるよう依頼している。しかしそれは叶えられることなく二見氏そのまま絶えることとなった

※この「両畠山氏の争いとそれ以後の二見氏」の解説は、「二見氏 (大和国)」の解説の一部です。
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