世界陸上4位入賞・オリンピック代表選考騒動
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「有森裕子」の記事における「世界陸上4位入賞・オリンピック代表選考騒動」の解説
同1991年夏に東京で開かれた世界陸上競技選手権大会のマラソンでは、メダルには届かなかったが、2時間31分08秒で4位入賞を果たし、バルセロナオリンピック(1992年)代表の有力候補となったものの、その時点ではまだ代表内定は出なかった(山下佐知子が2時間29分57秒で日本人トップの2位に入り銀メダル獲得、先にバルセロナ五輪内定に決まった。荒木久美は12位)。有森はその後バルセロナ五輪国内選考会の一つである、翌1992年1月の大阪国際女子マラソンに出場予定だったが、左足の怪我の為に欠場。又次の同年3月の名古屋国際女子マラソンも回避し、バルセロナ五輪女子マラソン代表選考は決定をただ待つのみとなる。尚名古屋国際が終了後の有森に対し、日本陸連からは「ケガが完治した事をアピールして欲しい」という要請もあって、有森は地元岡山市と及び千葉県の各10Kmロードレースで優勝するなど、不安が無いという存在を示していた。 そのオリンピックの女子マラソン代表の座をめぐり、有森が出場しなかった1992年1月の大阪国際女子マラソンでは、有森の日本最高記録を更新して2時間26分26秒のゴールタイムで優勝し、バルセロナ五輪代表を確定的にした小鴨由水に次ぎ、2時間27分2秒の好記録で2位となった松野明美と比較されることになる。当時の国民的な大論議となり、松野が自ら五輪代表決定直前に「私を選んで下さい」という異例の記者会見も大きな話題となった。 しかし代表選考の結末は、最後の3人目に有森の方がマラソンの経験と実績が買われて、山下・小鴨と共にバルセロナ五輪女子マラソン代表となった。それでも、有森よりも記録が良かった松野を落選させるという、日本陸連の不透明で曖昧な選考方法に抗議の声が殺到、有森の所属するリクルート等にも誹謗中傷の電話や手紙が相次いだという。尚、念願のオリンピック初代表に選出された有森は記者会見で「色んな形でこういう感じで決まった事も有りますが、『よかったな』という想いを、少しでも今日は出して良いんじゃないかなと」「受験発表を待つよりもちょっと酷いかな、という気持ちが有りました」等と落選した松野を気遣ってか、喜びの笑顔は殆ど見せなかった。 その後、有森と松野は20年間に渡って一度も互いに言葉を交わすことはなかった。後に『[劇場版]ライバル伝説 光と影』の映画鑑賞企画において20年ぶりに再会した際、有森は「20年間、松野明美を避けて来た」、「以前も何回か対面の機会はあったのですが、心情簡単には会えないなと思いまして、私の方が避けていました」と心情を吐露している。
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