世界各国での演奏活動・他ジャンルへの参加
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「ラヴィ・シャンカル」の記事における「世界各国での演奏活動・他ジャンルへの参加」の解説
1950年代になると、アルバム・レコーディングを行ったり、インド政府の派遣による文化使節のリーダーとなり、インド古典舞踊等の公演として、世界各国で演奏活動を行った。この一環として1958年(昭和33年)に来日した際、ラジオ東京テレビ(現・TBS)にてテレビ出演し、演奏も披露した(同年4月6日に『東芝日曜劇場』枠で放送)。1963年には、まだ8歳だったチャンドラカント・サルデーシュムクを見出し、後に内弟子として受け入れる1960年代には、当時人気だったロックバンド・ビートルズのメンバーであるジョージ・ハリスンを弟子として受け入れる。1960年代には、モントレー・ポップ・フェスティバルやウッドストック・フェスティバルといった大型フェスティバルにも参加。インド音楽だけにとどまらず、ロックやジャズ等のポピュラーミュージックにも影響を与える存在となる。その一方、シャンカル本人はハリスンが弟子入りしてからポップスターのように扱われることをよく思っていなかったとインタビューの中で振り返っており、ロックフェスへの参加も契約上の都合だったとしている。加えて、モントレーに参加していたジミ・ヘンドリクスやザ・フーが楽器に対して行った過激なパフォーマンスは、「楽器は神聖なものである」というシャンカルからしてみれば受け入れがたいものだった。ウッドストックに至っては、モントレーのようなテーマ性を見いだせず、シャンカルが観客たちに苦言を呈する場面もあった。これらをきっかけに、シャンカルはロックに失望し、大規模ロックフェスへの参加停止を決意した。だが1971年、ハリスンの呼びかけに応じ、バングラデシュの飢饉のためにニューヨークのマディソン・スクエア・ガーデンで開いたチャリティーコンサート『バングラデシュ難民救済コンサート』(The concert for Bangladesh)にて、リンゴ・スター、ボブ・ディラン、エリック・クラプトンらとともに共に参加している。この様子はのちに『バングラデシュ・コンサート』としてアルバム化された。なお、この時にハリスンと再会した際、ハリスンはインド風の服装で来印し、シャンカル自身は西洋風の服装で出迎えたという。また、サタジット・レイの監督作品や『まごころを君に』(『アルジャーノンに花束を』の映画版)、『ガンジー』など多くの映画音楽も手掛けた。ジャン=ピエール・ランパルやユーディ・メニューインといった西洋音楽の奏者との共演も積極的に行い、シタール協奏曲も作曲している。またフィリップ・グラスにも大きな影響を与えたことで知られている。他にも尺八奏者山本邦山、箏奏者宮下伸と共演している。 1991年(平成3年)に第2回福岡アジア文化賞大賞、1997年(平成9年)には第9回高松宮殿下記念世界文化賞(音楽部門)を受賞。 2002年、ハリスンの追悼コンサートが開かれた際、娘アヌーシュカと参加した。 2012年12月11日、カリフォルニア州サンディエゴで死去。92歳没。 2013年2月10日、第55回グラミー賞で功労賞が贈られる。授賞式には、アヌーシュカともう一人の娘ノラ・ジョーンズが出向いた。
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