与次郎狐の伝説
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(出典) 慶長9年8月(1604年9月)、佐竹義宣が久保田城(現在の秋田市)へ移って2、3日後、御座の間の庭に1匹の大狐が現れて義宣へ訴え出た。狐曰く「自分は神明山に300年余り住まう狐の長であるが、公がこの山へ築城されたことにより棲み家を失った。願わくば代わりの土地を賜わりたい。願い聞き届けられるならば、今後永く城の守りとなり、御用にも役立ちたい」。義宣が狐に、どのように役立つつもりかと尋ねると、火急の用あらば飛脚となり、江戸まで6日で往復すると答える。喜んだ義宣は、狐に城北の茶園近くの土地を与え、「茶園守の与次郎」と呼んで歩行並(かちなみ)の待遇とした。秋田転封前の水戸時代、茶園守の与次郎という家臣が居たので、その名を付けたものである。以来6年間、江戸へ急用が生じる度に与次郎が呼び出され、約束通り往復6日で返書を携え戻ってきた。 江戸までの道中、六田村(現在の東根市)の飛脚宿に、間右衛門という男が居た。この男、最近飛脚の宿泊が少ないことを不審に思っていたが、ある時佐竹の飛脚が飛ぶような速さで通り過ぎているという噂を聞きつけた。猟師の谷蔵にその事を相談すると、谷蔵は「それは狐に違いない、捕らえれば宿はまた繁盛する」と間右衛門を唆した。そこで2人は悪党仲間達と謀って狐の好物・油鼠を仕掛け、飛脚が来るのを待ち構えた。江戸へ上る途中の与次郎は目敏く罠の存在に気付き、御用の飛脚を罠にかけようとは不埒であると、意趣返しに油鼠をすべて奪い取ってやろうとしたものの、運悪く谷蔵の狐網に捕らえられてしまった。せめて御用だけは果たすべしと御状を網の目から外へ出すと、不思議なことに御状は空へ舞い上がった。谷蔵が一打ちすると、与次郎は呪いの言葉を吐いて死んだ。空へ舞い上がった御状は小狐達が引き継ぎ、遅滞無く江戸に届いたという(与次郎の霊が届けたと語る伝説もある)。 間右衛門、谷蔵らは奪った金を分け合い、狐の死体は煮て食うなどしたが、その夜から六田村の人々に乱心する者が続出した。近隣の狐達が集まって祟ったもので、自らの指を食いちぎる者、岩に齧り付いて歯を砕く者など、一月余りの間に300人以上が狂い、17人が死に、正気の者は10人ばかりという有り様だった。騒ぎは幕府の耳にも届き、代官・杉本伊兵衛が派遣された。伊兵衛も現地の惨状に肝を潰したが、正気の者たちから事のあらましを聞くと、与次郎をこの地で八幡に祀ることとし、恨みを収めて立ち退くよう狐達に向けて呼ばわった。すると狐は去り、村人は酒の醒めるように回復した。しかし間右衛門と谷蔵は10日も経たないうちに死に、子孫もやがて絶えた。 事の次第を伝え聞いた義宣は大いに無念がり、久保田城内に与次郎を祀る神社を建立した。また、江戸へ往来する際には、六田で必ず与次郎が祀られた宮に参拝した。義宣以降の歴代藩主も往来の際、街道から続く参道に化粧砂を敷いて必ず詣で、藩主が参拝できない場合には御刀番が代参する慣わしとなった。
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