上杉軍出陣
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慶長5年9月8日、上杉軍は米沢と庄内の二方面から、最上領へ向けて侵攻を開始した。上杉勢の指揮を執る将は景勝の重臣直江兼続で、総兵力は2万5000人にも及んだ。米沢を出た上杉軍は萩野中山口(狐越街道)、小滝口、大瀬口(白鷹町大瀬)、栃窪口(白鷹町栃窪)、掛入石仲中山口に分かれそれぞれ進軍した。兼続は萩野中山口を進んだ。それに対して最上軍の総兵力はおよそ7000人にすぎず、しかも居城の山形城をはじめ、畑谷城や長谷堂城など多くの属城にも兵力を分散していたため、山形城には4000人ほどの兵力しかなかった。(ただし両軍の正確の兵数は不明。後に記述) 上杉軍は、9月12日に畑谷城を包囲する。この城は、最上軍の白鷹方面最前線基地であるが、城将は江口光清以下500人ほどに過ぎなかった。義光は江口に撤退を命令していたが、江口以下、城兵は命令を無視し玉砕を覚悟で抵抗する。この時の事を、『最上義光物語』では、 「東西南北に入違ひもみ合。死を一挙にあらそひ。おめき叫て戦ひければ、さしも勇み進んたる寄手も。此いきほひに難叶。持楯かい楯打捨て。一度にとつと引たりける」 と、城兵側による抵抗をつぶさに描いている。しかし、兵力の差はいかんともし難く、畑谷城はその日のうちに落城、江口は敵軍の中に斬り込んで一戦した後、自害して果てた。しかし江口の抵抗は、上杉軍にも1000人近い死傷者を出させた。 9月17日、直江軍とは別に掛入石仲中山口を進軍してきた篠井康信、横田旨俊ら4000人が羽州街道最前線上山城に攻めに取りかかった。守将は最上氏の家臣・里見民部であり城兵はわずか500ほどにしか過ぎなかったが、里見民部は城門を開けて打って出た。上杉軍は一気に城兵を殲滅するため反撃に出た。城門付近で戦闘が繰り広げられたが、上杉軍の背後から、最上軍が襲いかかった。民部は、あらかじめ少ない兵を分散し、最上義光が与力として増派した草刈志摩に別動隊を率いさせて城の外に出して待ち伏せさせていたためである。背後を襲われた上杉軍は混乱に陥り、最上勢はこの隙に上杉勢を攻める。上杉方は大将の本村親盛が坂弥兵衛なる者に討ち取られた他、椎名弥七郎をはじめとする将兵の多くが討たれた。一方、最上勢も広河原で追撃中の草刈志摩が鉄砲に撃たれて討ち死にしている。里見は上杉軍400人余りの首を義光に送ったとされる。この上山城攻めの苦戦で掛入石仲中山口からの上杉軍は、同時期に行われていた長谷堂城の戦いで戦闘中の直江本隊とは最後まで合流することが出来なかった。 一方、庄内飽海方面では最上方の支援を受けて朝日山城に復帰した池田盛周等が一揆を起こし、酒田東禅寺城主志駄義秀と対峙したものの、上杉軍を前に一揆勢は敗退し、志駄義秀は最上川を遡る軍で、下秀久は六十里越を通る軍で村山郡の最上川西岸地域に侵入した。9月15日までに寒河江城・白岩城が、9月18日までに谷地城・長崎城・山野辺城などが落城した(『上杉家御年譜』『九月十八日上泉泰綱書状』)。また、直江兼続本隊の別動隊が白鷹方面から五百川渓谷沿いに進軍し、八沼城・鳥屋ヵ森城などを落として左沢まで進出した後山野辺で本隊と合流している。 各地で最上勢は地の利を生かしたが、兵力の差は大きくしだいに押し込まれていった。さらに上杉景勝に呼応して、最上義光と対立していた小野寺義道も、最上氏の属城である湯沢城(出羽国雄勝郡)を包囲攻撃し始めた。しかし、この戦いにおいて城将の楯岡満茂が善戦し、小野寺軍の侵攻は遅滞した。
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