上杉軍出陣とは? わかりやすく解説

上杉軍出陣

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/12/30 04:30 UTC 版)

慶長出羽合戦」の記事における「上杉軍出陣」の解説

慶長5年9月8日上杉軍米沢庄内二方面から、最上領へ向けて侵攻開始した上杉勢指揮執る将は景勝重臣直江兼続で、総兵力2万5000人にも及んだ米沢出た上杉軍萩野中山口街道)、小滝口、大瀬口(白鷹町大瀬)、栃窪口(白鷹町栃窪)、掛入石中山口分かれそれぞれ進軍した兼続萩野中山口進んだ。それに対して最上軍の総兵力はおよそ7000人にすぎず、しかも居城山形城をはじめ、畑谷城長谷堂城など多くの属城にも兵力分散していたため、山形城には4000人ほどの兵力しかなかった。(ただし両軍の正確の兵数不明。後に記述上杉軍は、9月12日畑谷城包囲する。この城は、最上軍白鷹方面最前線基地であるが、城将江口光清以下500人ほどに過ぎなかった。義光は江口撤退命令していたが、江口以下、城兵命令無視し玉砕覚悟抵抗する。この時の事を、『最上義光物語』では、 「東西南北に入違ひもみ合。死を一挙にあらそひ。おめき叫て戦ひければ、さしも勇み進んたる寄手も。此いきほひに難叶。持かい打捨て一度にとつと引たりける」 と、城兵側による抵抗つぶさに描いている。しかし、兵力の差はいかんともし難く畑谷城その日のうちに落城江口敵軍中に斬り込んで一戦した後、自害し果てた。しかし江口抵抗は、上杉軍にも1000人近死傷者を出させた。 9月17日直江軍とは別に入石中山口進軍してきた篠井康信、横田旨俊ら4000人が羽州街道最前線上山城攻め取りかかった。守将は最上氏家臣里見民部であり城兵はわずか500ほどにしか過ぎなかったが、里見民部城門開けて打って出た上杉軍一気城兵殲滅するため反撃出た城門付近戦闘繰り広げられたが、上杉軍背後から、最上軍襲いかかった民部は、あらかじめ少ない兵を分散し最上義光与力として増派した草刈志摩別動隊率いさせて城の外に出して待ち伏せさせていたためである。背後襲われ上杉軍混乱に陥り、最上勢はこの隙に上杉勢攻める。上杉方は大将本村親盛が坂弥兵衛なる者に討ち取られた他、椎名弥七郎をはじめとする将兵多く討たれた。一方最上勢も広河原追撃中の草刈志摩鉄砲撃たれ討ち死にしている。里見上杉軍400余りの首を義光に送ったとされるこの上山城攻め苦戦で掛入石中山口からの上軍は、同時期に行われていた長谷堂城の戦い戦闘中直江本隊とは最後まで合流することが出来なかった。 一方庄内飽海方面では最上方の支援受けて朝日山城復帰した池田盛周等が一揆起こし酒田東禅寺城主志駄義秀対峙したものの、上杉軍前に一揆勢は敗退し志駄義秀最上川遡る軍で、下秀久六十里越を通る軍で村山郡最上川西岸地域侵入した9月15日までに寒河江城白岩城が、9月18日までに谷地城長崎城・山野辺城などが落城した(『上杉家御年譜』『九月十八日上泉泰綱書状』)。また、直江兼続本隊別動隊白鷹方面から五百川渓谷沿いに進軍し、八沼城鳥屋森城などを落として左沢まで進出した後山野辺本隊合流している。 各地最上勢は地の利生かしたが、兵力の差は大きくしだいに押し込まれていった。さらに上杉景勝呼応して最上義光対立していた小野寺義道も、最上氏の属城である湯沢城出羽国雄勝郡)を包囲攻撃始めた。しかし、この戦いにおいて城将楯岡満茂善戦し小野寺軍の侵攻遅滞した。

※この「上杉軍出陣」の解説は、「慶長出羽合戦」の解説の一部です。
「上杉軍出陣」を含む「慶長出羽合戦」の記事については、「慶長出羽合戦」の概要を参照ください。

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