三津杜氏の誕生とは? わかりやすく解説

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三津杜氏の誕生

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/11/11 01:09 UTC 版)

安芸津の酒」の記事における「三津杜氏の誕生」の解説

軟水醸造法出来上がった同年三浦は「酒造研究会」を開き三津およびその周辺杜氏蔵人集めその醸造法教え研究を更に進めた。翌1898年明治31年三浦はその技術記した『改醸法実践録』を発行広く公開した軟水多かった広島杜氏大い刺激されともに研究励んだ。 同じ年である1898年明治31年広島県酒造組合結成され組合による県域での品評会技術講習会が始まる。一方で販売面での転機1900年明治33年)に訪れる。義和団の乱際し旧日本軍臨時的軍用酒を買おうと灘や堺の商人打診したものの急であったため2者とも躊躇したことから、広島県酒造組合が県の品評会1等受賞した数種の酒を見本として軍に提出するなど働きかけ三浦花心」・保田大吉白茶」・右衛門「於多福」の3つ軍用酒として採用された。花心と於多福三津の酒であり、この契約広島酒の全国販売展開の嚆矢となったこのころになると酒税地租抜いて国税収入トップとなった。国も財政一環として酒質改善動き1899年明治32年広島税務管理局醸造技術部設立1902年明治35年大蔵省醸造技手として橋爪陽が着任する。同1902年三浦酒造研究会は名を「醸親話会」に改め、翌1903年明治36年橋爪講師として招く。そこから1905年明治38年組合事業として橋爪酒造講習会三津開かれるようになり、これがのちに賀茂郡事業賀茂郡高等実業補習学校醸造科→県立醸造試験場事業県立醸造試験場附属三津酒造講習所昭和初期まで続いていった。こうして三浦の醸親話会・橋爪講習の中で育った杜氏三津杜氏となった1935年昭和10年時点での県内杜氏組合員数杜氏組合杜氏助業者計三津389 1,700 2,089 西条52 570 622 竹原45 215 260 内海19 84 103 鞆6 144 120 南方4 80 84 この明治30年代広島酒造界は古くからの手法でいわゆる鬼殺し的な地酒をつくる古流軟水醸造法用い三津流の2つ勢力になった。そこから、 西条 : 水質中硬水三津杜氏招聘して軟水醸造法研究し西条古流合わせた西条中硬水醸造法作り上げた。そのため事実上三津杜氏から西条杜氏生まれたことになり、西条では2つ杜氏主力となった竹原 : 水質軟水だが軟水醸造法開発前になる1893年明治26年)頃酒造適した照蓮寺井戸発見し独自に改醸が進められた。ただ井戸発見前から三津組合作っていることなどお互いに協力しあっており、竹原杜氏三津杜氏同化していた。 1906年明治39年)頃には軟水醸造法広島広く定着し広島杜氏大部分三津杜氏となっていった。同年現在の安芸津町周辺出身者三津醸造稼人組合結成1911年明治44年組合規約改正行い加入者数も増大し県内初めての杜氏組合になる三津杜氏組合結成する西条竹原などでも三津続いて杜氏組合結成された。

※この「三津杜氏の誕生」の解説は、「安芸津の酒」の解説の一部です。
「三津杜氏の誕生」を含む「安芸津の酒」の記事については、「安芸津の酒」の概要を参照ください。

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