三河川合駅 - 天竜峡駅間とは? わかりやすく解説

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三河川合駅 - 天竜峡駅間

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/06 14:42 UTC 版)

飯田線」の記事における「三河川合駅 - 天竜峡駅間」の解説

三河川合駅 - 天竜峡駅間は三信鉄道によって開通した鉄道会社設立されたのは、鉄道投機対象となっていた1927年昭和2年)であり、路線測量はその翌年4月から開始された。測量には、アイヌ民族測量士山地での測量技術長けた川村カ子トらが高給招聘され従事した。ところが、1929年昭和4年)には昭和恐慌起こり経済情勢急変。だが、筆頭株主東邦電力天竜川電力という電力会社で、濃くなる戦雲の中、天竜川国内エネルギー資源開発目論んでいた両社は、電源開発発電所建設など)の資材労働力運搬のため鉄道使用しようとして、1929年昭和4年8月天竜峡駅 - 門島駅間の着工後工事放棄されることなく1930年昭和5年)には南から三河川合駅 - 出馬駅間も着工した。しかし、中央構造線のもろい地層と、天竜川峡谷断崖絶壁阻まれ工事難航コスト削減のため、実際土木工事は、ほとんど朝鮮半島から来た人々担った。それでも会社資金繰り悪く朝鮮人労働者労働争議訴えてようやく不払い賃金一部だけ獲得するというありさまであり、もろい地層工事にもかかわらず保安設備劣悪犠牲者続出恐れをなした朝鮮人労働者現場から逃げ出し近隣農村駆け込む事態起こった1931年昭和6年からとうとう工事中断したが、三菱銀行などから多額融資得られ、この工事生命をかけた飛島組熊谷三太郎工費自分立て替える熱意あいまって工事再開された。このような紆余曲折日本鉄道史に残る凄惨な工事の末、最後大嵐駅 - 小和田駅間の開業でこの区間全通したのは1937年昭和12年)である(当初より電化)。これをもって豊川鉄道最初区間開業してから40年後、現在の飯田線である吉田駅現在の豊橋駅) - 辰野駅間は全通直通電車走り始めた。なお、この難工事成功実績により、熊谷三太郎自立成功戦後熊谷組として成長する地歩築いた

※この「三河川合駅 - 天竜峡駅間」の解説は、「飯田線」の解説の一部です。
「三河川合駅 - 天竜峡駅間」を含む「飯田線」の記事については、「飯田線」の概要を参照ください。

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