七清水
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2020/06/23 14:07 UTC 版)
箱清水(はこしみず) 箱池(はこいけ)とも。箱清水にあり、当地の地名の由来になった。 鳴子清水(なるこしみず) 鳴古池とも書く。諏訪町にある。菅江真澄が1784年(天明4年)に『來目路乃橋』において鳴子清水の清さを詩に詠み称えている。1878年(明治11年)発行の『開明長野町新図』に東西に隣接して三つの清水を合わせて鳴子清水と記されていることから、周辺の清水の総称だったと考えられる。三つの清水の真ん中は御女郎池と呼ばれていた。昭和初期には二つに減じていることが確認できる。近隣の銭湯、亀の湯が現在地へ移転した際に清水を建物内へ取り込み、湯として使用しているため現存しない。現在鳴子大明神西側にあるものは元個人の井戸である。 一盃清水(いっぱいしみず) 盃清水とも書く。花岡平の謙信物見の岩の下、岩井堂の前にあったが現在は枯れている。付近の不動明王の石仏のあたりという。現在花岡平の霊山寺の本堂前にあるものとは別のものである。弘法大師が修行中、杖で地面をつくと、清水が湧き出、硯の水に用いたという。上杉謙信布陣の際には飲み水に使われたといい、「上杉謙信の御膳水」の異名がある。 瓜割清水(うりわりしみず) 瓜破清水、有利割清水とも。新諏訪町の戸隠古道沿いと、同じく新諏訪町の諏訪神社の境内にある。元は後者の諏訪神社にあったが、1847年(弘化4年)の善光寺地震により閉塞し、前者は新しく掘り当てたもの。現在後者のものは昭和後期に新しく掘り当てたもの。名の由来は、瓜が割れるほどに冷たいことからと伝わる。1879年(明治12年)に長野県庁舎が焼失した際の誘致陳情書には飲用水、防火用水に前者の瓜割清水を使いたいとあり、豊富な水量を誇っていたことがうかがえる。 傾城清水(けいせいしみず) 『地震後世俗語之種』にのみ景清清水とある。上松5丁目、昌禅寺の北東に道に面して存在する。昔、遊女(=傾城)が善光寺参拝の帰路、疲れをこの清水で癒し、そのまま亡くなったことにちなむと伝わる。 柳清水(やなぎしみず) 矢無清水とも書く。『善光寺御堂再建記』には新田町、『善光寺道名所図会』には三輪町、『善光寺名所図会』には田町の会津屋醤油屋南の小路、三輪田町の染物屋の敷地内、また一説には往生寺の裏手ともいい、所在が定まっていないが、現在は一般的に往生寺裏手のものを指す。往生寺裏手にある柳清水は鏡池(前述)と同一視されることもある。 夏目清水(なつめしみず) 九重清水(ここのえしみず)、光明水(こうみょうすい)ともいう。『善光寺名所図会』には新田町と記述があるが、現在は西長野の西光寺の入り口右側にあるものを指す。当寺を開基した僧、叡錬が地面を掘ったところ湧き出たと伝わる。 夏清水(なつしみず) 濁清水(にごりしみず)ともいう。問御所町で国道19号線に面するみずほ銀行の東側から南へ延びる小路を清水小路といい、付近にあった。現在所在不明。 垢清水(あかしみず) 『善光寺御堂再建記』、『地震後世俗語之種』にのみ記述がある。東之門町にあるという。『地震後世俗語之種』には垢の字の横に「閼伽」と書かれている。『善光寺御堂再建記』には「弘法大師硯水」ともあり、弘法大師に由来がある宿坊の吉詳院裏にあったと考えられる。
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