一回目の執政官(紀元前471年)
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「ティトゥス・クィンクティウス・カピトリヌス・バルバトゥス」の記事における「一回目の執政官(紀元前471年)」の解説
紀元前471年、ティトゥス・クィンクティウスは、アッピウス・クラウディウス・クラッスス・インレギッレンシス・サビヌスと共に執政官に選ばれた。アッピウスは、その非妥協的な性格と、その父がプレブス(平民)と対立していたことから、ローマ元老院が選んだものであった。アッピウスは、護民官ウォレロ・プブリリウス(英語版)が昨年提出した法案に対抗することが期待されていた。ウォレロは護民官選挙をトリブス民会でトリブス毎に行い、パトリキとそのクリエンテスには選挙権は与えないことを提案していた。もしこの法案が成立すると、護民官はパトリキから政治的に完全に独立することができ、パトリキからの影響を排除できる。 紀元前486年から何度も提出されてきた公有地法の阻止と護民官グナエウス・ゲヌキウスの暗殺という紀元前473年の騒乱の後、ローマ市民の間には不穏な空気が流れていた。しかしながら、弁舌に長けたアッピウスはもう一人の護民官を激しく攻撃してやり込め、更に挑発して逆上させた。平民たちが立ち上がりあわや流血沙汰という所でティトゥス・クィンクティウスが仲裁に入り、アッピウスをクリア・オスティリア(元老院議会場)に退かせることで、群衆の不満をかろうじて鎮めることができた。そこで元老院議員達は、重大な市民の不安を招く可能性があるとして、アッピウスに非妥協的な姿勢を放棄するよう促した。政治的支援を失ったアッピウスは投票を認めるしかなく、結果プブリリウス法(英語版)が成立した。 政治的な混乱でローマが弱体化したと考えたウォルスキ族とアエクイ族はローマ領土を襲撃した。アッピウスはウォルスキに対する軍を指揮することとなったが、彼は兵士たちから憎まれており、敗北すら望むやる気のない軍は背後を突かれて敗走する事になった。アッピウスは軍の階級・秩序を維持しようとし、規律回復のために十分の一刑に頼った。対照的にティトゥス・クィンクティウスのアエクイに対する作戦は順調に進み、アエクイはローマ領から撤退した。ティトゥス・クィンクティウスは戦利品を全て彼の兵士に分配し、ローマに戻った。また元老院とプレブスの和解にも成功した。
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一回目の執政官
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「クィントゥス・アエミリウス・パプス」の記事における「一回目の執政官」の解説
紀元前282年、パプスは執政官に就任。同僚執政官はガイウス・ファブリキウス・ルスキヌスであった。執政官任期中パプスは北イタリアでガリア人のボイイ族に勝利し、他方ルスキヌスは南イタリアで戦っていた。ボイイに対する勝利で得た成果は大きく、この後50年以上にわたってガリア・キサルピナ(アルプスの南側のガリア人居住地域)は平穏であった。 同年、マグナ・グラエキア最大のギリシア人都市であるターレス(現在のターラント)がローマ艦隊を攻撃し、またローマの同盟市であるトゥリオイ(en、現在のカラブリア州東岸)を攻撃していた。この交渉のためにルキウス・ポストゥミウス・メゲッルスがターレスに派遣された。ローマは、トゥリオイで捕虜となったローマ駐屯兵の解放、(新ローマのため)追放された指導者達の帰還、略奪品の賠償、ローマ艦隊を攻撃した責任者の引渡しを求めた。このローマ使節はターレスで侮辱的な扱いを受け、ローマはターレスに宣戦布告、これが引き金となりピュロス戦争(紀元前280年 - 紀元前275年)が勃発した。 2年後の紀元前280年、ローマはヘラクレアの戦いでピュロスに敗北した。この捕虜交渉のためにパプスはルスキヌスとプブリウス・コルネリウス・ドラベッラと共にピュロスの元に派遣されている。
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一回目の執政官(紀元前475年)
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「ガイウス・ナウティウス・ルティルス (紀元前475年の執政官)」の記事における「一回目の執政官(紀元前475年)」の解説
紀元前475年に、プブリウス・ウァレリウス・プブリコラと共に執政官に就任。この年は、護民官ルキウス・カエディキウスとティトゥス・スタティウスによる前年の執政官スプリウス・セルウィリウス・ストルクトゥスの告発で始まった。罪状は最終的な勝利は得たもののヤニクルムの丘の戦いでの軍の指揮の不手際であった。ストルクトゥスは同僚執政官アウルス・ウェルギニウス・トリコストゥス・ルティルスの弁護もあって、無罪を勝ち取った。 同僚執政官のプブリコラは、ウェイイ郊外に陣を取ったウェイイ・サビニ連合軍に対処することとなり、ルティルスはローマと同盟するラティウム同盟をウォルスキとアエクイの侵攻から防衛することとなった。 ティトゥス・リウィウスによれば、ローマがラティウムに軍を進めたのは、実際の危機に対応するためと言うより、ラティウムにおける自身の優越性を見せるためであったとされる。ウォルスキ軍が出撃して来なかったため、ローマ軍は会戦を実施できず、一連の略奪を行っただけで作戦を終了した。 他方、ハリカルナッソスのディオニュシオスによると、ルティルスはプブリコラの戦闘の勝利を確認した後にローマを出発したが、既にラティウム軍がウォウスキ軍を撃退したため、介入すること無しにローマに戻ったとされる。
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