ローズの在職期間 (1920–1942)
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「ションバーグ黒人文化研究センター」の記事における「ローズの在職期間 (1920–1942)」の解説
1920年、アーネスティン・ローズ(1880年にニューヨーク州ブリッジハンプトン生まれの白人女性)が分館の司書になった。 彼女はすぐにすべての白人の図書館員を統合した 。ニューヨーク公共図書館に初めて雇用されたアフリカ系アメリカ人のキャスリーン・アレン・ラティマ―は、数か月後、ロベルタ・ボスリー と同じようにローズと共に働くために送り込まれた。しばらくして、サディ・ピーターソン・デラニー が雇われた。同時に、彼らは図書館の利用者の生活と読書を結び付けるよう支援する計画を作り、学校やコミュニティー内の社会組織と協力した 。 1921年、図書館はハーレムでアフリカ系アメリカ人の芸術の初めての展覧会を行った。これは毎年恒例のイベントになった。図書館は急成長するハーレム・ルネサンスの中心になった。1923年、135丁目分館はニューヨーク市で唯一黒人の図書館員を雇用しており、その結果、レジーナ・M・アンダーソンがニューヨーク公共図書館に雇われた時、彼女は135丁目分館に勤務することになった。 ローズは1923年、アメリカ図書館協会に報告書を発行し、黒人に関する本や黒人によって書かれたものへのリクエストが高まっており そして専門的な訓練を受けた非白人の司書への需要も高まっていると述べた。 1924年後半、ローズはミーティングを開き、アーサー・アルフォンソ・ションバーグ、 ジェームズ・ウェルドン・ジョンソン、 ヒューバート・ハリソンを含む出席者たちは貴重書の保存にフォーカスし、アフリカ系アメリカ人に関するコレクションを充実させるための寄付を募ると決めた。1925年5月8日、ニューヨーク公共図書館の一部門である「黒人文学、歴史と印刷物」部門としてスタートした。1926年、ションバーグは自身が持つアフリカ系アメリカ人文学のコレクションを一般に公開するために売却したいと考えていた。しかし彼はこのコレクションをハーレムに留めておきたかった。ローズと米国都市同盟はカーネギー財団にションバーグに1万ドルを払いそのコレクションを図書館に寄贈するよう説得した。1926年、ションバーグの個人コレクションが加わったことでセンターのコレクションは高く評価された。コレクションを寄付することで、ションバーグは黒人が他の人種に劣らない歴史と文化を持っていることを証明しようとした。 ションバーグの5,000に上るコレクションが寄付された。 1929年、アンダーソンは昇進を希望したが叶えられず、差別によって昇進できなかったと考え、W.E.B.デュボアとウォルター・フランシス・ホワイトに援助を願った。彼女に代わってデュボアとホワイトが送った書状と、ホワイトによるボイコットの後、アンダーソンは昇進し、リビングトン通りの分館に異動した。 1930年までに、センターは18,000の資料があった。1932年、ションバーグは彼のコレクションの初めての学芸員になり、彼が亡くなる1938年まで在任した。1935年、センターは障害があって図書館に行くことができない人に週1回本を届けるプロジェクトを開発した。ローレンス・D・レディックは黒人文学のションバーグコレクションの2番目の学芸員になった。レドリックの要請により、1940年10月、黒人の歴史・文学及び出版物部門全体がションバーグ黒人歴史文学コレクションと改名された。 1942年、図書館を増築し、図書館の蔵書が40,000冊になった頃、ローズは引退した。ドロシー・ロビンソン・ホーマーは135番通りの市民委員会がローズを黒人の図書館員と置き換えるよう要求したので、彼女を分館の図書館員に置き換えた。
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